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    インタビュー ] 何も見えないところから、見えるものにするのが写真の面白さ-写真家小嶋三樹さんのインタビュー


    今回インタビューさせていただいた小嶋三樹さんは、現在、山梨県富士川町に在住。写真家として36年以上活動されています。

    写真家「小嶋三樹」

     

    私どものブログをいつも読んでくださっているYDさんが、写真を和紙に焼き付けている素晴らしいアーティストがいらっしゃるのですが、と小嶋さんを紹介してくださいました。小嶋さんのテーマは、自然の中の生命を光で表現すること。光を描くには陰を表現することが必要であり、陰を描くには光を表現することが必要だと主張されています。その調和の世界が、独特の小嶋ワールドです。

     

    「小嶋三樹、太素杳冥

    (写真集「太素杳冥」から。光と陰の中の生命感を表現している。)

     

     

    5月中旬の夏かと思うような暑さの中、富士山を望むことができる静かな佇まいの富士川町のご自宅にお伺いさせていただきました。初めてお会いしたのだが、まるで、以前から知り合いだった方と話をしているような雰囲気でした。

     

     

    「どういうきっかけで写真を始められたのでしょうか?」

     

    一番初めは、油絵を描いていました。それから版画に興味を持って、創形美術学校の版画科で2年間学びました。そこでは、様々な版種の技法の中でシルクスクリーンで写真製版も学びました。又、写真の講座もあったのです。実は、版画と写真はよく似ているのです。版画の版にあたるのが、写真のフィルムで、それをもとにしてプリントするわけです。

     

    20歳の時に、ヨーロッパに行って、展覧会や美術館巡りをしていると、写真展を結構やっているのです。その時に、写真っていいなと思いました。日本にいた時には、写真をアートとしては見ていなかったので、衝撃でした。写真も表現の手段になりうるなと。

     

    それで、版画学校を卒業後、写真学校に入り直しました。そこで、二年間、基礎的なことを学びました。卒業後は、プロのところで1年程、助手をやってから、25歳でフリーランスになりました。今は、職業として仕事の写真も撮っていますが、スタートがこのようだったので、お金を稼ぐだけではなくて、表現として写真をやりたいという気持ちが強かったです。

     

     

    「写真家としてやってきた中で、どんなご苦労をされたのか、お聞かせくださいますか?」

     

    経済的には大変なこともありました。しかし、色々な方に恵まれてここまで来られました。25歳でフリーランスですから、もう36年になります。あっというまでした。

     

    苦労というのは、正直に言って、あまり苦労した記憶が無いかな。何度もやり直しをしても、翌日見ると、気に入らなくて、全て、やり直しとか。それで、暗室から出るのが嫌になって、暗室に、寝袋持ち込んで、そこで寝るとか。でも、それは、ものを作る人は、みんな味わっていると思います。それは、苦労とはかんじませんでした。

     

    「小嶋さんの取り組んだ、和紙に写真をプリントするという話をお聞かせください。」

     

    簡単に説明すると、写真を焼き付ける印画紙を、和紙を使って自分で手作りするということです。和紙に、自分で乳剤を塗るのです。大切なのは、和紙を使っても、今までつかってきた市販の印画紙以上の価値を生み出さないといけないということです。又は、全く、別の価値を作りださないといけないということです。そうでなかったら、単に和紙を使ってやりましたという趣味の範囲になってしまいます。そういう風にはしたくなかったです。印画紙になる和紙探し、テスト、そして自分が納得できるトーンを出すのに、5年かかってしまいました。 暗室で薬品の中に和紙を入れて現像処理をした後水洗いすると、手漉き和紙というのはふわーと溶けて散ってしまいます。それ以外でも、乳剤が剥離したり、裏に滲みてしまったりとか、和紙にはつきものの不純物がシミになって出てしまったり、いろいろなトラブルが発生しました。

     

    行きついたのが、越中五箇山の悠久紙です。その五箇山の悠久紙では、実際に蔵にまで入れていただいて見せていただき、どの厚さの紙が良いかを探すなど、一枚一枚手にとって選別させてもらいました。悠久紙の宮本さんとその息子さんには、本当にお世話になりました。私と5年間やる間に、一緒に悩んで追及してくれました。

     

    越中五箇山悠久紙のWebサイトは、こちらから。冬の雪に晒して白くするというこだわりのある和紙です。

    http://www1.tst.ne.jp/yukyushi/

     

     

    それから、裏打ちとか糊のことなどもあります。東京のマスミという表装を扱うお店があるのですが、雑誌の取材で海外から日本の表装文化、技術を学びに来ている方を取材する機会があり、当時本で学ぶだけでは限界があって悩んでいた糊の濃さを目の前で見ることができました。そこでは、表装教室もやっていたので、すぐに入りました。自分でも掛け軸を作るようになりました。表装を習ったので、裏打ちをしたらどういう効果がでるかも分かるようになったのです。伝統的な技術を学べたことは大変プラスになりました。

      

    又、写真は普通、ベニヤのパネルに貼るのですが、ちゃんと袋張りした表装のパネルに貼るという方法には、意味があるのです。和紙は、普通の印画紙のように、光を反射しません。その性質を活かすには、袋張り表装のパネルでなければだめなんです。そういうことも色々と試しながら学んでいきました。

     

    2003年の東京画廊での個展「閑寂幽玄」で、本格的に和紙を使い始めました。先ほどもお話しましたが、ただ和紙を使ってやってありますでは、工芸的な意味合いです。いわゆる、アートのクオリティーではありません。

     

    小嶋三樹、閑寂幽玄

    (2003年個展「閑寂幽玄」東京画廊での展示風景)

     

    手漉き和紙と機械漉き和紙についてですが、機械漉き和紙もどんどん良くなっています。種類も増えました。根本は、手漉き和紙を使うから良い悪いではなく、自分の作品とマッチさせて、手漉き和紙ならではの良さを活かしていけば良いのです。正直なところ、敢えて何を使っているのかなんて書く必要はないと思っています。滲み止め加工をしていない桐生の手漉き和紙を意図的に使ったことがあります。当然のことながら滲みがでるのですが、それが和紙の良さでもあるのです。インクジェットプリンターなどは、如何に写真用紙の白さの上に正確なドットを細かく打ちを出すかを競っていますが、和紙は繊維の間に染み込んで滲んだりします。その特徴を分かった上で、自分でなにを使うかを決めています。

     

    いっぽう、和紙は小さい作品では、ディテールが死んでしまうので向いていません。大きさのマッチングも大切な要素です。

     

    又、写真用紙というのは表面がテカテカしていますが、和紙は光りません。光を吸収するから目に優しいです。そして、和紙は、裏打ちをすると深みが増します。それが、和紙を使うメリットだと思います。

     

    その裏打ちですが、裏打ちするタイミングはいつでも良いと思います。書道も表具屋さんへ持っていって裏打ちします。それと同じです。写真でも同じです。シャドウ部の深みが増します。

     

     

    「小嶋さんの作品について教えてください。モノクロ写真が多いようですが、その意図は?」

     

    内側から湧き出してくる光なんです。色というのは、表面的なものになってしまうのです。きっかけは、太素杳冥の中にある写真を撮影していた時です。日没頃撮っていた時に、自分には光溢れる風景に感じられていたのにはっと気がついて周りを観ると真っ暗だったのです。でも、下は輝いて見えました。それが何でだろうと思ったのが始まりです。陰が極まって、陽が生じるようなイメージです。そこには、色はいりません。観る人が陰影の中にご自分の色を感じてもらえれば良いです。

     

    ​写真家「小嶋三樹」 太素杳冥

    (写真集「太素杳冥」から。光と陰の中の生命感を表現している。陰の部分も一つだけの黒ではない。)

     

    プリントの中の黒ですが、けっしてベタの黒ではありません。存在感がある黒です。版画をやっている時に学んだことですが、真っ黒に潰すのは簡単なことです。しかし、一見、真っ暗に見えても、僅かな陰影の濃淡の差異の中に何かの存在を感じさせるのはとても日本的です。

     

    ​写真家「小嶋三樹」 太素杳冥

    (写真集「太素杳冥」から。光と陰の中の生命感を表現している。陰の部分も一つだけの黒ではない。)

     

    和紙は良いけれども、難しいです。何が難しいかというと、黒の濃度が全然出ないのです。明暗の階調の幅が狭く、それで、普通の階調の再現域の広い洋紙と違った表現をしないといけないからです。私は、調和の世界を気にします。それは、単純に数字化したら、この黒の濃度は出ていないけれど、調和の世界ならその黒の色を感じることはできます。

     

    ​写真家「小嶋三樹」閑寂幽玄@ゆこもり展

    (2016年個展「閑寂幽寂」手仕事扱い処 ゆこもり会場 展示風景)

     

    その生命感をちゃんと描写して、全体的に暗さを表現するには、技術が必要になります。例えば、この滝の写真ですが、普通に撮るだけだったら、決してこうはなりません。暗いところを出したら、滝が白く飛んでしまうし、滝を出したら、まわりは真っ黒に潰れます。

     

    ​​写真家「小嶋三樹」 閑寂幽玄

    (2012年「閑寂幽玄」、滝の写真は写真家小嶋三樹のSignatureWorksのようだ。)

     

    「ネガは楽譜であり、プリントは演奏である。」 アンセル・アダムス(アメリカの写真家。1902〜1984)

     

    ただ、写真を撮ってプリントしただけでは、譜面どおりに演奏しただけということです。でも、指揮者が違ったり、オーケストラが違ったりすると、同じ楽譜なのに、違った感動が生まれます。また、同じ指揮者が30代の頃に演奏したのと、60代で演奏すれば、生涯をとおして違ったものが生まれ表現されます。写真でも、10年、20年と経ってから、プリントしなおすと、新しい発見と表現があります。写真というのはそういうものだと考えます。

      

    写真を撮って写真屋さんにだして終わりでなく、撮ったところは、まだ過程の半分の一歩手前なんです。自分のイメージにそこから近づける作業が必要です。

     

     パソコンの画面上だけではなく、プリントする場合には自分が良いと思った和紙であったり、版画の紙であったり、そして、表装などの見え方まで、写真をするなら考えるべきだと思っています。私は、紙の質感を見せたいので、展示会では、額装の時でも、ガラスを入れません。

     

    (2016年個展「閑寂幽寂」手仕事扱い処 ゆこもり会場 展示風景)

     

    作品一つ一つに題名はつけません。見ていただく方の感性で対峙して見ていただくのに、題は必要ないと思っています。地名ぐらいは表示する場合もありますが、それも、作品を観てもらうには、あまり重要ではないと考えています。言葉で表現できないものをやっているのに、言葉でどこまで説明する必要があるのかということです。

     

     

    「小嶋さんご自身が持っていらっしゃるテーマは?」

     

    自然の中の命の光です。やってきて気づいたのはそこです。一つの光として表現する。Photographyとは、本来、光で描くという意味です。光は大事です。単に明暗の話ではなく、光を描くには、影が必要で、逆に陰を描こうとすると光が必要になります。両方の調和の世界です。

     

    このニュージーランドでの写真は、敢えて、青色を出しました。ベースはモノクロです。父がちょうど亡くなった時だったので、青を使ったのは影響があったのかもしれません。

     

    ​​写真家「小嶋三樹」New Zealand

    ​​写真家「小嶋三樹」New Zealand(ひかりといのちとの題名がついているのは小嶋さんの作品では珍しい。ニュージーランドで撮影)

     

    このダイヤモンド富士ですが、普通に撮ると逆光ですので、山肌がベタで真っ黒になるのです。シルエットでよければそれで良いのですが、山や森を出すには、技術的な裏付けが必要です。残念ながら、写真では実際の明暗の差を再現できません。ラティチュードと言いますが、記録し再現できる階調の幅に限りがあります。それが前提ですので、自分の表現したいものに近づける調整が必要です。暗い所のディティールを描写するには、明るく撮れば良いのですが、そうすると明るい所は真っ白になってしまいます。明るい所を大切にして暗くして撮れば今度はシャドウ部が真っ黒になってしまう。そこで、暗室で光を多くあてたり少なくしたりするプリント調整をします。

     

    小嶋三樹、ダイヤモンド富士

    (朔旦冬至ダイヤモンド富士)

     

    「100人のうち、99人に伝わらなくても、1人感動してくれる人がいたらいいのです。」

     

    自分が納得した作品を出すことが大切なんです。よく、写真コンテストなどで受賞を狙って、あの審査員は、祭りが好きだとか、風景が好きだとかと、コンテストの審査員に合わせた写真を撮って出品している人がおられます。そうなると、何のために写真を撮っているのかが、分からなくなってしまいます。美術や写真でも、コンクールの審査員は、自分の生徒が出品していれば、落とせないものです。又、持ち回りで賞を取らせたりもします。

     

    やはり、芸術関係には、そういうところがあります。良い面もありますが、弊害もあるわけです。それで、先生に合わせて作品を作って、仮に、金賞を取れたとしても、嬉しいのでしょうか。ですから、結果に一喜一憂するのではなく、自分の撮りたいものを追及して、1人でもいいから感動してくれるような作品ができれば良いのだと思います。

     

    自分で被写体を探すことをしないで、SNSやコンテスト雑誌で紹介されて有名になった撮影ポイントで、みんなが同じ方向にズラリ並んでカメラを向けていますね。異様な光景です。そういう場所で、みんなとは違う方向だったり、後ろを向いて撮っている人がいたら、その人は本物だと思います。

     

    ​小嶋三樹、太素杳冥

    (写真集「太素杳冥」から。光と陰の中の生命感を表現している。陰の部分も一つだけの黒ではない。)

     

    デジタルでは、フォトショップなど、何種類か使います。使い方によっては、合成など邪道な面があることは確かです。ただ、そうではない写真の質を高める調整のための使い方をすれば良いのです。撮ったまま何もしなくても良いという考えは、暗室でプリントをやったことのない人に見受けられますが、写真が自然界の明暗差をすべて記録できない事を知っていたらあり得ない考えだと思います。

     

    色についてですが、JPEGで表現されているのはカメラメーカーの考えている色です。例えば青空といっても五月晴れも秋晴れも同じ青ではなく、ひとりひとりが感じた色で表現すれば良いのです。写真をやるのだったら、そこは自分でやるべきです。無条件に色を使わされているのです。フィルターや風景の濃度などカメラメーカーに決められています。

     

    デジタルでの加工に限らず、「私には、こういう風に見えた、感じた」事を人に伝えるために表現するのだということです。写真の面白いところは、もちろん表面的に写すところもありますが、写真には、見えないモノが写るのだと思います。そこが面白いのです。何も見えないところから、見えるものにするところに作者がいるのです。そして、見るかたが自由に作品を観て感じることがあって初めて作品が成立するのだと思います。

     

    ​小嶋三樹、太素杳冥

    (写真集「太素杳冥」から。)

     

    最後になりますが、写真を志す人には、基本をしっかりと学んでほしいです。きれいに撮る目先のテクニックだけでなく、露出などの「写す基本とプリント表現する基本」は身につけて欲しいです。二度とない人生の中で、写真と出会い、その人にしかできない表現を目指してもらいたいです。その過程の中で、「自分はこうしたいのだけれど、なぜ、できないのだ?」、かを考え、できるようにする方法を考える、そのプロセスが大切です。人と比べて、自分が一番か二番という相対評価ではなく、自分が納得できるものを追及するという絶対評価を追及していると、自然と、他の人も分かってくれます。

     

     

    「インタビューアーの独り言」

     

    小嶋さんの写真に対する真摯な思いを、読者の皆様に伝えることはできただろうか? 写真というものに対する知識が殆ど無い私には、技術的な話は、パソコンを初めて起動する小学生並みの理解力しかない。ただ、小嶋さんは、話を初めてすぐにそれを察してくれたようだ。噛み砕いて話していただいたが、それでもハードルは高かった。

     

    しかし、ここに紹介させていただいた写真を見れば、きっと、読者も感じてくれるものがあるのではないだろうか。筆者には、小嶋さんの写真を見ていると、太古の昔から止まっていた時間が、ちょうど、水の雫が垂れる音で動き出すような厳粛なものを感じる。高等生物が地球に出現する前の生命の始まりの音、それが聞こえてくる。そんな風に感じさせる写真、いや芸術に触れることが、今まであっただろうか?

     

    小嶋さんの芸術家としての姿勢は、アーティストを目指す人には、きっと一つの指針となるのではないだろうか。簡単に、苦労は無かったと言い切った小嶋さんだが、五年の間、和紙を印画紙にするために、指針無いゼロから作り上げていった話は、自分にはとてもできないと思う。物を創るということ、オリジナリティを創り出すはこういう事なんだろうか? その間には、焦燥感や、絶望感などもあったろう。しかし、今の温和な小嶋さんの顔からは、とても想像できない。きっと、その過程での苦しさは、小嶋さんご本人とご家族だけが知っているのだろう。

     

    できれば、この記事は和紙に関する仕事をしている人には、できるだけ届けたい。これは、和紙の新しい使い方を実際に追及した写真家の話である。こういう新しい需要が、他にもあるかもしれない。又、海外の需要家に提案できるかもしれない。産業の新しい方向や需要の開拓というのは、どこにあるか分からない。そういう意味で、越中五箇山の悠久紙の方の取り組みには敬意を表する。

     

    インタビューの初めに、小嶋さんのお父上は作家の「小島直記先生」の話が出た。福岡県の八女市の方で、1919年に生まれた方だそうだ。私事になるが、実をいうと、筆者の父も1919年生まれ。さらに、この小島直記先生は、終戦時は、海軍主計大尉だったそうだ。私の父も、終戦時に海軍主計大尉だった。きっと、私たちの父親は、同じところで学び、同じところで働き、話を交わしたこともあっただろう。それから70年以上たった2018年に、その子供たち二人が、話を交わす機会に恵まれたのだ。不思議な因縁である。

      

    なお、小嶋さんのHPとFBはこちらからどうぞ。

    http://www.miki-kojima.com/

     

    http://www.facebook.com/miki.kojima.73

     

     


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      インタビュー ] 切り絵の描き方を久保修さんに聞きました―第三篇


      JUGEMテーマ:アート、デザイン、日々 / Art, Design, LIFE

       

      切り絵の作り方の手順

       

      一つの切り絵の作品を作るには、最初にするのはスケッチを描くことです。

      久保修さん、スケッチ

       


      その後、下絵(白と黒の世界を作る)を、描きます。

      久保修さん、下絵作成

       

      それから、白のところを切り取っていくのです。下絵を和紙に載せて、テープで固定して、下絵と和紙を、二枚一緒に切っていきます。手順としては、白の面積の細かいところから切ります。この絵の場合、いがのギザギザのところからです。

       

      久保修さん、切り絵の描き方

      これをこのままで置く場合と、黒く染めて、色を付ける作業をする2つに分かれます。切ったあとには、色をつけますが、それが、一番大変です。真っ白い和紙に、ブラシや刷毛で染めていくことになります。

       

       

       

      (久保さんの使っておられる道具類)

       

      小さいサイズのものは、2、3週間でできるけれど、大きいサイズのものは(例えばふすま一枚のサイズ)1カ月、2カ月とかかります。中には、1年かけて作るのもあります。工夫するのは、説明的なものにならないようにすることです。技術を見せる部分と、出来上がったときに芸術として主張しなければいけない両方を満たさないといけません。

       

       

      和紙については、こだわりを持っています。1枚の和紙をナイフで、繊細に切り抜いて仕上げます。作品の題材によっては、薄い和紙を幾重にも重ねて奥行や立体感を出していきます。そして、自分のオリジナルの鮮やかな色彩で、質感も表現していくのです。

       

      あと、私は、下絵を本にして出しています。その下絵を使っていただければと思います。下絵を作るのは、大変です。しかし、本当に大切なことですので、私の下絵を使うことによって、皆さんの助けになればと思います。(アマゾンで久保修と検索すると、久保さんの著作が10数冊出てきます(筆者)

       

       

      ”インタビューアの独り言

       切り絵画家久保修の成功から学ぶこと。”

       

      久保さんは、非常に穏やかな雰囲気の人だった。しゃべり方もソフト。南向きの明るいアトリエでのインタビューは、実に、心地良いものだった。福島での展覧会の直前にもかかわらず、ゆっくりと時間を取っていただいたのは嬉しかった。今回、普段の編集後記と違って、何が久保さんを成功させたのかを考えてみたい。それは、アートを目指す若者だけではなく、全ての人生の挑戦者に参考になるのではないだろうかと思う。

       

      キーワードは、「継続」、「海外」、「ハングリー精神」、そして「訪れたチャンスをものにする」。

       

      実は、インタビューの最初、未だ本題に入る前に、久保さんは、この47年間、紙を切り続けてきましたと、自己紹介をされた。久保さんが、社会に出始めたのは、バブルの前。世間がバブルに踊らせられていた時も、金融危機の時も、リーマンショックの時も、久保さんは紙を切り続けていた。決して、詳しくは語らなかったが、大変なこと、嫌なこともあったことだろう。今ある久保修という切り絵画家は、継続してきた延長線上にあり、今後も、きっとそうなのだと思う。まさに、「継続は力なり」ということを。もちろん、画家としての、才能は必要なのだろう。ただ、継続するということ自体も才能の一つではないだろうか。

       

      「海外に出て異文化に触れたらどうだ。」 若い頃の久保さんに、作家の小松左京さんはそうアドバイスをした。そして、久保さんは、1年間、スペインに滞在して、そこで、新しい境地を開いた。久保さん曰く、「それまでの自分は、“はみ出し”ができなかった。スケッチブックの枠の中でしか描けなかった。」 「スペインの芸術を志す人たちは、自由にやっていた。」 その1年間のスペイン滞在で一番感激したのは、色々なものが、吸い取り紙のように、身体に吸収されたことだという。

       

      その久保さんは、この10年、日本の国内だけではなく、海外に目を向けている。切り絵の新しい理解者を増やそうとして、伝道師のように海外に足を向けている。

       

      今の、日本人、特に伝統産業や古典芸能にたずさわる人たちには、海外の需要を取り込むのだという気概が、もっと必要なのではないだろうか。例えば、手漉き和紙の生産者の方々は、国内だけでなく、海外に目を向ける必要があると思う。

       

      切り絵画家の世界には、日本の古典的な芸術界に存在している家元制度などがないから、そういったものには、頼れない。それは、果たしてマイナスのことだったのだろうか?久保さんが、「弟子を取らない」と、いうことは、弟子やその弟子からお金も取れないし、作品を売りつけることもできない。まさに、裸一貫で、世の中を渡ってきている。船底一枚下は地獄というわけだ。そういうハングリー精神が、成長の根源にあったのではないだろうか。

       

      自分を取り立ててくれる人がいたら、相手の懐に飛び込むことの大切さを痛感する。久保さんの場合は、それが、たまたま、小松左京さんだった。小松さんという理解者を得たことは、非常に幸運だったと、述べている。読者の中には、「普通の人には、そんな僥倖は、滅多に訪れるものではない」と、反論されるかもしれない。しかし、仮に貴方に、そういうチャンスが巡ってきたときに、自分のものにすることができるだろうか?久保さんを引き立てた小松さんは、きっと、若い頃の久保さんの持っている何かに、惚れたのではないだろうか。そういうものを持っていたのではないだろうか。

       

      今回のインタビューでは、ある程度の年齢になったら、自分が生涯追及するようなテーマを持つことの大切さを、教えてもらったような気がする。久保さんのテーマは、「紙のジャポニスム」が、阪神淡路大震災がきっかけだった。久保さんはたまたま40歳代に見つけたようだが、人生百年の時代だから、40歳でなくても良い。60歳、70歳、80歳でも、いつでも良いのではないだろうか。

       

      学ぶべきことは、きっと、他にもいろいろあるだろうし、久保さんだけが知っている何かもあるのかもしれない。芸術家を目指す人だけではなく、今、読者が戦っているそれぞれの分野でも、久保さんの生き方が何かのヒントになればと思う。切り絵画家「久保修」

       

       


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        インタビュー ] 第二篇 久保修さんとのインタビュー 「切り絵という手法で日本を描いていく」


         

         

        ”阪神淡路大震災で被災―切り絵という手法で、日本を描いていこうと、決意しました。”

         

        阪神大震災で被災しました。一瞬のうちに長く続いたものが消えるということを体験したのです。日本には、数々の自然災害があります。 自然災害が起こると、廃材の山ができるんです。神戸の時、若い夫婦が、年代物だけれどまだ綺麗な輪島塗の箱を捨てているのを目撃。なぜ、捨てるのか聞いてみると、「この機会に、全てを新しくしたい。」と、そう言っていました。それを見ていて感じたことは、復興は大事だけれど、このままでは、日本の大事なものが無くなっていく。とにかく、これはまずいと感じました。

        その時です。自分は切り絵という手法で、日本を描いていこうと、決意したのです。日本の原風景的なものは、消失しかけている。もちろん、まだまだ存在しているけれど、田舎の風景の中に都会があったりして、消失している日本があるのも事実。又、日本には、四季があって、長いこと続けていた生活は、その四季の変化に基づいているんです。

        久保修 町家の四季

        (作品:町家の四季 久保さんの代表作。2009年の制作。左から右に向かって四季の移り変わりが一枚の絵の中に描かれている。)

         

        神戸の地震の後、日本全国を旅しました。47都道府県全部を回りました。飲みに行くと楽しかったけれど、良い作品をつくることが大切と、飲みにいくことをやめて、作品作りに没頭しました。そして、テーマは「紙のジャポニスム」と決めました。日本には、素晴らしい四季の変化があります。それは、四季の風物詩だったり、旬の食材であったり。生命力にあふれた瞬間を切り取って作品に仕上げています。

         

        久保さんが、今回の福島での展覧会会場での解説で、紙のジャポニスムについて、「日本を見つける旅、日本に出会う旅、日本を感じる旅となっていった。」と、説明している。

         

        久保修 朝靄

        (作品:朝靄)

          

        例えば、季節の代わり目。日本の春の色は、単純に緑一色ではないのです。多様な緑です。それは、グリーンが、濃かったり、パステルだったり、ハーフトーンだったり。そんな色の変わり方を出したい。そう思って、絵の具を混ぜていきました。葉っぱを一枚一枚、違ったグリーンで色付けします。これは、何十年もかかったけれど、これからも、それを追及していきたいです。

         

        (左から秋の七草、都の桜、朝顔、雪中椿)

         

        嬉しかったのは、ふるさと切手「隅田川花火、東京都」が1999年に採用されたことです。とにかく、自分の個展の案内状を、自分のデザインした切手で出したいと、強く願いました。思い続けていると、願いは叶うのかなと思います。その後、切手では、2009年に「深川八幡祭」と2012年に「大阪天神祭」とデザインが採用されました。 

         

        久保修デザイン切手

        1999年に発行されたふるさと切手を最初に、久保さんのデザインは、その後2回採用されている。:隅田川 花火、東京都)

         

        切手のデザインが採用された頃に、東京に進出しました。それから、東京と大阪を行ったり来たりする生活になりましたが、悔しかったのは、東京で紹介される時に、「関西では有名な久保君」と言われていたことです。

          

        海外に出るようになったのは、NYでの2008年の、「THE NIPPON CLUB」展覧会がきっかけです。2010年には、NYを拠点に文化庁文化交流使となって、3カ月で30カ所廻りました。小学校、中学校、高校、そして大学でもワークショップを開催しました。フィラデルフィアのドレクセル大学に招聘されて、学生に教えました。ドレクセル大学には、その時から1年おきに行っています。

         

        ヨーロッパでは、スペイン・ポルトガル・ウクライナ・ロシアなど。アジアでは、マレーシア・フィリピン・シンガポール・中国など。普段、なかなか行けないような、イラン・トルコ・ジョージア・キューバなどでも、展覧会やワークショップなどの活動を行ってきています。ロシアでは、3回目の訪問の時に、モスクワの東洋美術館という国立美術館が展覧会を開いてくれました。国立の美術館が生きているアーティストの展覧会を開くというのは、稀なことです。

         

        私の場合、小松左京先生に応援して頂いたことは、本当に大きかったです。その後も、色んな人が助けてくれました。チャンスをくれないで、口で、言うだけの方もいます。チャンスをくださいと、若い時からお願いしています。批評するのは簡単だけれど、言われる方は大変。批評するからには、本人も覚悟を決めないといけない。そういうことで苦しんだことはあります。

         

        日本の古典芸能などでは、宗家とか流派の家元制度などのピラミッドがあります。しかし、切り絵をはじめ、いくつかの日本の芸術にはそういう階級制度みたいなものがありません。今のところ、私の場合、弟子は取りません。自分の実力だけで勝負していくものだと思います。 国も、本当は、もっと芸術部門にお金を使って欲しいです。ほんの少し、芸術に振り替えてくれたら、もっともっとやれるのです。そういう点で、外務省の文化交流使の制度で、NYに2009年に行くことができたのは、大きかったです。若い人たちは、もっと海外に出ていくべきだと思います。

         

         

        ”「切り絵で描くジャポニスム」”

         

        今回、福島民報社という新聞社の創刊125周年記念事業で、展覧会を4月1日から5月6日まで行います。会場は、とうほう・みんなの文化センター(福島県文化センター)です。スペシャルイベントも多く、4月21日は、奥会津郷土写真家の星賢孝氏が、そして4月22日は、ピアニストの平井元喜氏がゲストとして来場します。出品数も193と多いです。この出品数は、大変な数です。自分も本当に力を入れています。

         

        (福島民報社創刊125周年記念事業のパンフレットの裏面)

         

        斉藤清という福島の木版画家の作品が好きでした。特に、会津は好きで若い時から、福島に行く機会が多かったです。私は、生まれが山口県(長州)ですが、その私が、会津を好きというのもおかしいですね。

         

        3・11以降も、何度も訪れています。風評被害もあり、子供たちは不安定でした。仮設住宅が出来て少し落ち着いたこともあり、何かできないかと思っていた時に、新聞社や市のバックアップもあって、切り絵のワークショップを開いたのです。被災者の方々も、最初は、切り絵のような細かいことはできないと言って、あまり、乗り気ではなかったけれど、だんだんと切り絵に集中するようになってきました。

         

        福島県には、思い入れがたくさんあります。日本のそれ以外に好きな所を5カ所ですか? やはり、自分の出身の山口県の美祢市、兵庫県豊岡市、岡山県全域、北海道の雪景色、そして九州ですね。

         

        第三篇は切り絵の描き方です。5月7日にリリースされます。


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        インタビュー ] 切り絵画家「久保修」さんに話を聞きにいきました―第一篇


        桜の花が、例年より、一週間ほど早く咲いた2018年。その桜が満開で咲き誇っている今年の3月、切り絵画家の「久保修」さんとのインタビューをする機会を得た。福島での展覧会直前にもかかわらず、お時間をとってくださった。このインタビューは、もう何年も会っていなかった、筆者の中学時代、高校時代のクラスメートが、和紙のことをやっているんだったら、この人と話してみたらとメールをくれたのがきっかけだった。縁は異なもの不思議なものを、地で行くような事の運びだった。

        切り絵画家「久保修」

        (久保修さんとのインタビュー2018327)

         

        最初に、久保修さんをご存知ない方に、簡単にご紹介させていただきたい。日本の数ある切り絵画家の中でも、久保さんは、日本国内はもとより、全世界で認められている唯一の画家ではないだろうか。国内では、ほぼ毎年日本各地で個展・展覧会を開いておられる。そして、久保さんの切り絵を使用した商品も、サントリーをはじめ数多くあり、さらに、ふるさと記念切手も1999年、2009年、2012年と発行されている。年賀状のデザインにも2回採用されている。

         


        久保修 サントリービール福島の春

        (サントリービール ザ・プレミアム・モルツの缶のデザインは2015年から毎年採用されている。今年、2018年は、福島の春というエリア限定)

         

        海外での活動は、ざっと挙げただけでも、アメリカでは40カ所でワークショップや大学でのレクチャーをされている。さらに、スペイン、ポルトガル、ロシア、イラン、キューバ、トルコ、ジョージア、アジアでも、フィリピン、マレーシア、シンガポール、中国、シンガポールと、それこそ「地球儀を俯瞰する」活動をされている。久保さんの外交は、日本の知恵と美、そして芸術を発信しているのだ。なお、久保さんは、今年海外では、インドネシアでも9月に活動を予定しているそうだ。

         

         

        そして、今年、2018年は、4月1日から5月6日まで福島市で「切り絵で描くジャポニスム」を福島民報社創刊125周年記念事業として展覧会を開かれている。 出品される作品数も、1988年から2018年までの30年間の集大成で190を超えるそうで、相当、気合が入っている。制作時間は短いものでも3週間ぐらいかかるとのことで、大きな作品では、年単位かかるという。それだからこそ、190の出品ということの重さが分かるのである。ゴールデンウィークには、是非、福島を行ってご覧になっては如何。

         

        久保修 ちらし

        (福島民報社創刊125周年記念事業)

         

        今回は、現在にいたる久保さんの活動の軌跡と、久保さんが進めている「紙のジャポニスム」についての話、切り絵の作り方などを話していただいた。

        久保修 因幡の白兎

        (因幡の白兎: 久保さんは、寝る前に必ず枕元に、ペンとスケッチブックを置いているという。夢でみた物語や、風景などを忘れない間に残しておくためだと、「切り絵で描くジャポニスム」という本の中に書かれている。この波の上を走っている兎の夢を見たそうだ。)

         

        ”「久保さんが切り絵にたずさわるようになったのは、どういうきっかけだったのでしょうか?」”

         

        私の実家は、山口県の美祢(みね)市で建築事務所をやっていました。私は長男です。1970年に、大阪の大学に行き始めました。当時は、学生運動の残りが感じられる時期でした。建築では、パースという完成予想図を作ります。 石垣や木などを、紙を切ることでやってみました。その時に、紙をナイフで切るシャープな線ができるのが面白くなったのです。最初は、植物、果物のシルエットを紙で切っていたのです。

         

        その後、京都で、友禅の型染を見て、魅せられました。とにかく、紙で表現するのが面白い。そんなことをしているうちに、20歳になったら大学をやめていました。親には、勘当されましたが、母親は、しばらく仕送りをしてくれていました。助かりました。

         

        ”そこからどういう風に、現在の切り絵画家に進まれたのでしょうか?”

         

        27歳の時に、作家の小松左京さんに出会いました。 「大阪を考える」というシンポジウムがあって、大阪を語る会に、たまたま欠員があったので出席することになりました。行ってみると、周りは、年配の文化人ばかりでした。その時、小松先生が「見かけない顔だけど何してるの?」「どんな作品? 一度、事務所に持っておいで。」と言ってくれたんです。

         

        それから3カ月後に、作品を持っていきました。小松先生は、「自分が想像していたのと違う。一枚の絵にした方がいいじゃないか。」そう仰って、持って行った絵を借りてくれました。それから、時々、電話でコンタクトしていたら、ある時、パーティーで人を紹介してあげるからおいでよということで、大阪のプラザホテルの27階にあった小松先生の事務所に行くことになりました。そのパーティーが始まりで、東京でも、色々な人を紹介してくれました。

         

        更に、小松左京事務所がスポンサーになって、2日間の個展を開くことになりました。それがきっかけで、関西財界の人が支援してくれるようになりました。その次は、東京で開くことになりました。ベルビー赤坂の一周年記念で個展。その時、岡本太郎さんが小松左京さんと一緒に会場に来られ、「つまらないな。君の作品には、何かを壊そうという意欲がないよ。」と突き放されました。当時、誰にも負けないくらい細かく切ることはできたけれど、「君は、本当に、これが芸術だと思っているのか?」「これは、工芸部門だ。芸術じゃない。」本当に、ショックでしたね。

         

        その年、大阪で個展を開きました。毎日新聞の学芸部の記者が、私の取り組みを面白いと言ってくれたんです。その会場で、須田剋太さんという司馬遼太郎先生の挿絵を描いていた人に初めてお会いしました。その人が、初日のレセプションで、いい気になっていた私に、「久保君、君の絵は俗悪だね。」「君の絵は説明的だけど、絵画というのとは表現が違う。」

        岡本太郎先生といい、須田剋太さんといい、強烈な批評でした。しかし、その須田さんも、個展で売れている絵の前は通り過ぎて、何も言わずに、「世界に久保君を認めてくれた人がいるんだ、だから、この絵については、僕は何も言うことはない。」「絵画を、もっと勉強したらどうだ。今のままでは、技術ばっかりに走って表現力がなくなる。」

         

        悩んだ結果、小松左京先生に相談しました。すると、小松先生にも、「絵から伝わってくるものがない。このままでは、映画村のセットになってしまう。」「それより、ここで海外に出て、異文化に触れたらどうだ。行ってみたい国はないのか?」 当時、ピカソが好きだったので、スペインに行きたいと答えました。ただ、渡航費がない、言葉もしゃべれない。それから数日して、小松左京事務所に呼ばれました。すると、そこに司馬遼太郎先生がいて、「君は縄文時代の顔をしている。」 

         

        岡本太郎さんには、「つまらない。」須田剋太さんには、「俗悪」と言われ、小松先生には、「映画村のセット」と言われたり、そして、司馬遼太郎さんは「縄文時代の顔」と言われて、ちょっと、むっとしていたら、「日本の物づくりの原点は縄文時代にある。だから、誉め言葉で言ったんだよ。」 

         

         

        ”スペインに行ったことが転機となりました。”

         

        そんなこんな、話しているうちに、小松左京先生が、関西の作家と財界の人たちでスポンサーをしてやるから、スペインに行ってこいということになったのです。そして、一年間の渡航費と滞在費を出してくれました。33歳の時です。これが、転機となりました。

         

        スペインは、石の文化。そして、食べ物が違う。スペインでは、歴史に触れ、宗教絵画を鑑賞することができました。それは、「光と影」で、ちょっと、切り絵の世界に似ていると思いました。司馬先生が、「街道を行く」を執筆された時に、スペインでの案内役をされた山岡清さんという方がおられるのですが、その人が私のスペインでの身元引受役をしてくれました。その山岡さんは、私に、「スーパーマーケットには行くな。言葉が覚えられないから、市場に行け。」こういう、アドバイスもしてくれました。

         

        スペインでは、大陸、大地の広さ、見るもの全てが自分の五感に吸い取り紙のように入ってきました。それが一番感激したことです。スペインでは、他の画家は、みんな自由にやっていました。それまでの私は、建築の勉強をしたせいか、はみ出しができない。スケッチブックの枠から離れられなかったんです。

         久保修 トレドの街並み

        (作品:トレドの街並み)

         

        切り絵で、紙を切るというベースは変わらなかったけれど、それに塗る色を、自分で作っていくことにしました。これが、のちに自分を助けてくれました。画材に、布を使ったり、絵具に砂を混ぜたり、そういったものと切り絵をコラボさせました。自分は、それを混合技法、Mixed Mediaと名付けました。

        久保修 スペインの赤い土

        (作品:スペインの赤い土)

         

        そんなことをしているうちに、1年の期限はあっという間にきました。帰国したら、周りには、「スペインかぶれしたな。」「切り絵じゃなくなったな。」と、色々な批判を言う人がいましたが、気にしなかったです。そのMixed Mediaを追及していたら、某百貨店のバイヤーが、「久保修Mixed Media」という展覧会を開いてくれました。

         

         

        第二篇に続く(5月4日にリリースされます。)


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          インタビュー ] 山井綱雄師のインタビューの記事を書いての感想。


          今回の「金春流シテ方 山井綱雄師」のインタビューの4回シリーズは、大変ご好評をいただいております。

           

          「面白い記事をありがとう」というコメントがFBでも寄せられております。

          又、これを機会に、能楽を見に行くというコメントを寄せてくださった方もおられます。

           

          能の羽衣

           

           

          確かに、第一篇で話してくださった「能楽はマインドフルネス」という視点は、持っていませんでした。目から鱗でした。

          又、第三篇で取り上げた、山井さんが一番感動した、金春流79世宗家金春信高先生の渾身を振り絞っての「関寺小町」の話は、鬼気迫るものがあります。倒れても倒れても舞おうとし続ける中、後ろの地謡の方はその非常事態にもかかわらず、謡い続ける。そんな普通には、聞く事ができないエピソードを語って下さった山井さんには感謝感謝です。

           

          第四篇では、「ただ古い物を守っていくだけではダメだと思います。古きを訪ねて新しきを知る。まさに温故知新の精神が必要だと思います。」と、語られた山井さんの熱気を、このインタビュー記事が読者の方に伝えられたかと心配になります。

           

          このブログは、「和紙はお好き?」という和紙のネットショップのブログですが、和紙だけにはこだわらずに、日本の和の芸術、様式、古典芸能など、又、和にもこだわらずに、色々とジャンルを広げて、「いかにして、昔からあるものを後世に伝えていくか?」という視点で今後も取り組んでまいります。その中で、違った分野で活躍されている方の取り組み方が、他のみなさんの一助になればと思います。

           

          山井さんには、二回もインタビューのお時間を取っていただいただけでなく、公演でお忙しい中での記事のチェックなど、本当にありがとうございました。今後のご活躍を祈念いたします。最後になりますが、今回、山井さんを私どもに紹介していただいた御手洗さんには、お礼の言葉もありません。今後とも、宜しくお願いいたします。

           

           

           

           


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            インタビュー ] 能楽をどうやって後世に伝えるかー山井綱雄師の挑戦は2018年も続く


            JUGEMテーマ:アート、デザイン、日々 / Art, Design, LIFE

             

            第四篇では、能楽の将来について、山井さんの持っている危惧とそれに対処して行動しているこの二年間を、熱く、語ってもらいました。

             

             

            “能楽は、博物館の陳列物になってはいけない。能とは何か、何を伝えていくかを常に考えています。”

             

             

            日本に住む日本人は、日本の伝統文化に、無頓着。そのことを海外に住んでいる日本人から指摘されました。よく聞く話で、日本に住む日本人は、海外に出て初めて、外国の友人知人から尋ねられ、答えられない自分が自国の文化を知らなさすぎるということを痛切に感じるといいます。今の若い人に限らず、茶道、書道、武道、能や狂言など、あまり知らない人が多いのは事実です。

             

            その理由の一つは、70年前の先の大戦の後、日本文化を『無菌殺菌』にして始めなければならなかったことがあると思います。その時、戦前からあった改めなければならないものを捨てるのだけでなく、日本が古来より伝えてきた、良かったことまで捨ててしまったのだと思います。といいますか、そうしないと、再出発出来ない時代だったのだと思うのです。あの時代から今日まで、日本人の心にぽっかり穴が空いてしまっているのです。この21世紀は、日本人が忘れてきたものに気づかなくてはならない時代だと、わたしは思います。

             

            そういう意味で、2020年東京オリンピックは大きな意味があると思います。しかしそれで終わりにしてはいけないのです。そこが始まりだと思った方が良いのだと思います。 「日本人が忘れかけている大切な何かを思い出す」、2020年のオリンピックをきっかけに、それに気がつかなければならない時だと思います。100年後・・・22世紀の日本人が21世紀を振り返ったとき、2020年の東京オリンピックを契機にして日本は良い方向に変わったのだ、という風に言ってもらえるような日本にしなければならないと思います。

             

             

             

            しかし、ただ古い物を守っていくだけではダメだと思います。古きを訪ねて新しきを知る。まさに温故知新の精神が必要だと思います。ある方は、「伝承」とは、前からのものをそのまま伝えていくもので、一方、「伝統」とは、新しい解釈を入れて時代に合わせて作っていくものと言っていまして。正に、生きたものなのです。

            (能とオペラを協演するという形で2017年にカナダのバンクーバーで公演。古いものを守っていくだけではダメ。山井さんの新しいチャレンジは成功している。)

             

            私のやっている能楽とは、偉大な金春流の先人たちが作ってきたもの、1400年もの間、苦しく辛い時代も乗り越えてきた大切な貴重な文化財産です。そこには、たくさんのヒントが詰まっています。これを現代に生かしていくことです。能は素晴らしいだけではダメ。能楽は、『博物館の陳列物』になってはいけないのです。能とは何か?何を伝えていくべきか?を常に考えています。今、生きていてここにあるものを伝えていく。それはいったい、何なのか。それを、突っ込んで紹介していく。今の時代に伝統文化を背負っている人間は、全てのジャンルを問わずそれを考えていかなければいけないのです。昔だけのものを守っているのでは、ダメです。それでは、どうしたら良いか。それが難しい。簡単に出る答えなどありません。どうすれば良いのかを、いつも自問自答し、もがいています。

             

            ある企業の社長さんが、「日本は中国にも韓国にもインドにも経済的に追い抜かれて、日本なんてもうダメだし落ち目だし、日本は終わりですね」と言われました。しかし、私は決してそうは思いません。高度経済成長の時のような爆発的なことはないかもしれませんが、日本人、日本という国が持っているポテンシャルがあります。アメリカとの貿易摩擦の時に、日本の製品がなぜあんなに売れたかというと、日本人が作り出すものは違うからです。世界の中で品質が良いなど、車や電化製品にしても、日本人は手先が器用で、個人主義ではなく集団主義を大事にし、産み出された日本製品は高く海外で評価されています。働き蟻などと表現されますが、あの時の日本人の精神というのは、ずっとそうだったのだと思います。日本人はずっとそういう民族なのだと思うのです。とても繊細な心を持ち手先も器用です。能楽はそういった日本人の特性があったからこそ、奇跡的に伝来してこられました。その日本の素晴らしさというのが凝縮されています。そういうことが今はややお囃子ろ骨抜きにされてしまっています。

             

            金春流が未来につながっていくために何が必要なのか、そこが私の目的の第一です。且つ今の時代を見て、世界の情勢を見た場合、日本人が古来からもっていた心というものが世界の人々に「ああそうか、そういう考えがあるのだ」と知らしめることの出来る、大事な時期だと思います。個人主義やある国の大統領のように自国ファーストと言って自分の国だけ良ければいい、ということではなく、「共存共栄していくのだ」という発想です。

             

            西洋文化や、所謂キリスト教的な発想にはこの現代にひとつの行き詰まりがある、と私は思っています。西洋文化やキリスト教を否定している訳ではありせん。西洋には善と悪が明確にありますが、100%善と悪に分けることなど出来ない、と私は考えています。少なくても、日本の文化は違います。日本の文化では、神と鬼は表裏一体です。神は鬼にもなります。だから鬼が100%悪い、という考えが能にはありません。能ではそういう描かれ方をしていません。また、鬼も西洋的なデビルやデーモンといった『悪魔』という存在はありません。鬼も可哀想で悲哀があり理由があるのだ、誰の心にも潜んでいるのだ、という所にスポットを当てているのが、能の中での鬼の役割です。

             

            その為に、色々なことをしてきました。以上がわたし個人の考えです。金春流の歴史から学んだのも勿論のこと、少なくとも他流の能楽師の方たちも同世代の方々はそのような考えを大なり小なりお持ちだと思います。これからは、こういうことを多くの日本人に、特に若い人たちにも伝えていくことが必要だと思います。そういうために、能楽の公演では私が主催する公演も含めて全て学生料金を設けています。

             

            又、頼まれて、企業セミナーや異業種交流会などでお話したり、学校などで子供達への啓蒙活動も積極的に取り組んでいます。子供達は、大人が憂いて考えるより遙かに能楽の素晴らしさを感じてくれます。手応えを感じます。

             

            又、昨年10月には、カナダのバンクーバーで、能を元にした新作オペラを作り能とオペラで共演するということに取り組みました。

            カナダ人オペラ歌手や室内楽の方々に囲まれて、これこそ究極の異文化交流。作るのに大変な労力が掛かりましたが、大変に素晴らしい作品になり、現地で大絶賛を受けました。いつか、日本でも再演したいです。



             

            又2017年は、同い年の金剛流能楽師・豊嶋晃さんと、異流共演能という形で、東京と京都で「二人静」を勤めました。異流で、二人静という演目を共演するのは前例がなく大変に難しいのです。しかしこれも、今までにない素晴らしい作品になり、とても評価して頂きました。

            山井綱雄 能オペラ

             

            これまた同い年の津軽三味線の第一人者・上妻宏光さんとの年始の東京国際フォーラムでの共演、そして、私の少年時代からの大ファンで親愛なるデーモン閣下と上妻さんと私による能舞音楽劇「義経記」は、今年も全国各地で上演させて頂きます。閣下の語りと歌と、上妻さんの演奏と、私の舞。有り得ない組み合わせで義経の生涯を描く大作です。涙あり笑いありの、何方でも楽しめる、一大エンターテイメントです。

             

            そして今年は、お陰様にて、私の舞台生活40周年記念の年なのです。

            1026日金曜夜 国立能楽堂 「舞台生活40周年記念山井綱雄之會」にて、観世流の梅若紀彰さんと、あの野村萬斎さんと能「蝉丸」で共演することになりました。

             

            新しい能のファンを作っていくために、本当に、もがきながら試行錯誤をしています。

             

            一方で、気がかりなことがあります。能面も装束も今でも新しいものが作られています。しかし、そういう業者さんも絶滅寸前で、作っていただいている京都の能装束屋さんは自分の代で廃業する、と言っています。2軒くらいしかなく、非常にまずい状況です。滅びてしまうと本当に取り返しがつかないことなので、なんとかしてほしい、と心から思っています。

             

            実際にこの能装束を作られている京都の西陣の、佐々木能衣装の社長の佐々木さんにお会いし、厳しい労働条件で機織りをされている職人さん達の現場を拝見しました。本当に過酷で、あんなに大変なところで作業されているとは、驚きました。能装束にお世話になっている能楽師は皆見に行べきだと思いました。国の支援がもっとあれば、と思います。そして、需要があれば。そのためには、能楽全体が底上げされ、需要が増えるしかありません

             

            「羽衣」の話をします。この話は、日本と日本人の在り方について教えてくれます。

             

            羽衣というのは能の中で一番有名な演目で、三保の松原の天女が降りてくる話です。この羽衣には、日本人のこころに繋がる、すごく重要な裏テーマがあると言われています。

            羽衣替の型

             (羽衣替の型)

             

            漁師が浜辺の松に置いてあった天女の衣をひろい、家の宝物にしようと思ったら、天女が戻ってきてそれを返してください、と言うのですが、「自分の宝物だから」とそれを漁師が拒みます。そこで天女が泣いてしまい、かわいそうだから返してあげるけれど、さぞ美しいと聞いている天女の舞をってくれたら返そう、と漁師は交換条件を出します。天女はそれがないと神通力も使えないから、とにかく返してください、と懇願します。しかし、漁師はそんなの嘘だろう、どうせ返したら約束を果たさずにすぐ帰ってしまうのだろう、と疑います。

             

            その返す刀で発する天女の言葉が、大変に有名な一節です。

            「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」

            素晴らしい、深い一節です。偽りというものは人間にこそあって、天上界には嘘偽りというものは存在しません、という意味です。その後、漁師は手渡しで羽衣を返します。そして天女は舞を舞って天に帰っていきます。天に帰って行く前に、日本の国土に宝を降らせる場面があり、そういう動作(型)をします。七宝充満の宝降らすのです。天女が、日本の国に、幸せを降らせるために来たのだ、ということが最後の最後にわかります。そして、最後は、富士山の高嶺に飛んで帰っていく、というお話です。

             

            実は日本全国に伝わる羽衣伝説というのは、この能「羽衣」と違い、ひどいお話です。ほとんど拉致のような話・・・結婚して子供を産ませ、その子供が蔵の奥のほうに羽衣を隠していることを見つけ、それを天女が知り羽衣を取り返し逃げていく、という誠に眉をひそめたくなる話になっています。では、なぜ能だけがこういう良い話になっているかというと、羽衣伝説が三保の松原を舞台にしている事がひとつのキーポイントかと思います

             

            能「羽衣」の作者は不明で、これは一つの仮説・おとぎ話としてお聞き下さい。この「羽衣」の舞台となっている三保の松原がある静岡市清水一帯は、むかしは駿河(するが)」という国でした。実は、インドネシア語に、スルガ発音する、「天国」という意味を指す言葉があります。黒潮で海流に乗ってインドネシアから辿りついた人がいたのではないか、と考えられているのです。つまり天女は、外国人という説です。通常、アメリカなどでもそうですが、外国人が来ると原住民との間で戦争が起こります。しかし、この能のお話では一切戦いがなく、和解しています。実はそういう流れ着いた人たちが天女として描かれ、この三保の松原にて共存共栄して仲良くしたのではないか?そういう事実があったのではないか、と一説には言われています。

             

            能の中で天女が漁師に対して羽衣を返してと頼むとき、「もとのごとくに置き給へ」という言葉あります。つまり、元の場所に(松の木にかかっていたように)戻してくさい、という意味です。天人は月の世界に住んでいる人で、天人にとって人間は汚らわしい存在のため、触りたくないので元の場所に置いてください、と言っているのです。

             

            先ほどの「いや疑いは人間にあり。天に偽なきものを。」「あら恥かしやさらばとて、羽衣を返しあたふれば。」の後、漁師から天女へ衣を返す場面になるのですが、金春流の天女の台詞で「さらばこなたへ給はり候へ」と言います。つまり直接わたしに手渡してください、という意味で、漁師は天女に直接手渡しで羽衣を返します。本来、天人にとって人間は交わることさえもない汚らわしい存在にも関わらずそうしたのは、まさに共存共栄で仲良く暮らしていくというメッセージが込められて描かれているのだろうと思うのです。そして、天女は約束の舞を踊り、宝を降らして帰っていきます。日本人の本来もっている心が、漁師と天女の和睦に集約されているのだろうと思います。これが日本人の心だと思います。

            能の羽衣

            (山井さんの羽衣の舞)

             

            最後に、2018年の抱負は?

             

            今年2018年は、お陰様にて、芸道40周年を迎えることが出来ました。節目として10月26日金曜夜18:00開演 国立能楽堂 「芸道40周年記念山井綱雄之會」にて、能「蝉丸」をプロデュースと主演をします。先ほども触れましたが、能楽界のスターである観世流の梅若紀彰さんが「僕の舞台に出てください」とオファーを出したところ、快く出演してくださることになりました。紀彰さんの叔父様は人間国宝である梅若実先生で、現代能楽界最高の演者です。その方の後継者であります。梅若という家はとても歴史があり京都の丹波出身の家で800年ほどの歴史があると言われています。紀彰さんはその次の当主になられる人です。

             

            能「蝉丸」での、「蝉丸」というのは弟でその役を紀彰さんが、姉の「逆髪」役を私が勤めます。身体的ハンディキャップの為に、捨てられてしまった兄弟が再開し、また別れてしまう、という悲哀の名曲です。蝉丸は天皇の子で、盲目で生まれたため、大坂山に捨てられてしまった、というかわいそうな話です。狂言の野村萬斎さんにも出ていただきます。これがひとつの区切りとしての集大成であり、このような素晴らしい方々と肩を並べてどこまで出来るか、というところをお見せしたいと思っています。

             

            又、2017年は正月元旦にしたのと同様に、2018年は正月の二日に、日本で一番人気な三味線の上妻宏光さんのライブに出演しました。そういう方と一緒にできることを光栄に思います。同じ歳ということもあり、何より刺激になります。違うジャンルであっても、上妻さんはとても根性があり、これだけ売れてメジャーなレコード会社と契約をしているにも関わらず、そこに奢ることなく、若いころやっていたように三味線一本で、飲み屋などを周りお客さんに聴かせることもいつでもできる、そこでお客さんをおっと言わせる自信があると、そういう気持ちをいつも持ち続けています。そういう強さをもっている人なので一緒に共演していてもひしひしと感じます。とても励まされ刺激的な存在です。自分も能楽師をやってて良かったと思えるひとときです。

             

            又、二月には、千葉県の青葉の森公園芸術文化ホールで青葉能もありました。そこでは、「夕顔」という演目でシテを勤めました。我が金春流では、この「夕顔」を、400年ぶりに復曲しました。とても歴史に残る仕事をさせて頂きました。

             

            昨年7月には、重要無形文化財総合指定保持者の認定を受けました。

            また、長男の通う中学校のPTA会長にも今年度(平成30年度)なりました()

            また、能楽界でも、大きなお役をさせて頂くようになりそうです。

            これからも、次の世代の伝承への努力と、私自身の芸の研鑽、そして、日本中に世界中に、「日本のこころ」を伝えていきたいと思います。

             

            皆様も是非、能楽堂へ足をお運び下さいませ!!

            (このスケジュール表は、昨年末から今年前半のものですが、どんどん新しい演目が入ってきているので、ブログ

            https://ameblo.jp/yamaitsunao/ 

            を、チェックされてください。(筆者)

             


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              インタビュー ] 生涯で一番心に残る演目は? 金春流シテ方山井綱雄師に聞いてみました。


              JUGEMテーマ:能楽

               

              ”金春流79世宗家金春信高先生が77歳の時に、「関寺小町」を舞われました。これが、私の一番心に残る演目です。人間が人間を具現化するという芸術の中で、能楽以上のものはない、と確信しました。”

               

              能楽という芸術は、奥深さという点では世界屈指です。決して他がダメだという意味ではありませんが、わたしは、能楽は世界最高の芸術だと、よく言っています。森羅万象、閻魔大王から草木の精霊や蝶々まで、老若男女あらゆる役が出てきます。人間の喜怒哀楽も表現しつくしていると言われています。

               

              その能の最終境地が老女を演じること、だと言われています。金春流では、「関寺小町」という演目があり、一子相伝で家元しかできません。ちょうど20年前、わたしの能楽の父であり恩師である、金春流79世宗家金春信高先生が77歳の時に、その関寺小町を舞われました。これが、私の一番心に残る演目でした。

               

              先生は、当初は、関寺小町を舞わないと仰っていましたが、先生のお父様78世金春八条先生が舞われてから、すでに30年以上も経っており、他に誰もできないため、周りから懇願されたそうです。

               

              その時に、信高先生が個人的にわたしに、「自分は関寺小町を舞う決意をした。一年間全ての弟子の稽古、全ての舞台を休んで、関寺小町だけに集中したい。だから君の稽古も休ませて欲しい。」 そういう風におっしゃいました。わたしも、「ぜひ、集中なさってください」と申し上げました。そして当日は観客席の一番前で見よう、などと思っていたのですが、本当に驚いたのは、弱冠24歳の駆け出しのわたしが、8人の地謡のキャストの一人に選ばれていたのです。能楽最高の曲なので、本来はこんな若造が入れるわけもなく、もっと相応しい先輩方がいたのも事実です。しかし信高先生のご意志もあったおかげで、地謡に入れていただく事ができました。

               

              通常の能は特にリハーサルもなく(必要なときは一度だけやり)、本番をむかえます。しかし、この時ばかりは、みんなで集まって全体稽古を、何回かしました。わたしがさせて頂いた地謡を謡うのは、当然難しかったのですが、とにかく、何に一番驚いたかというと、信高先生が演じられたシテ(主役)の、100歳になった小野小町の役の難易度でした。100歳になった小野小町が七夕の夜に舞を舞うというシンプルなストーリーです。しかし当時24歳のわたしは生意気ながら、先生の稽古風景を拝見した時に、あまりにもその主役小野小町役の謡や型が簡単すぎたので、「何が一子相伝なのだ、何で一年もかけるのだ」と、理解に苦しみました。

               

              100歳の小野小町の役は杖をつき、謡の節もシンプルで簡単だし、動きも簡単簡素だったのです。何が難しいのか、全く理解できませんでした。自分だったら一週間で出来てしまう、とも思っていました。しかし、稽古を重ねていくうちに、能楽の本質というものが見えてきました。確かに、能楽には美しく見せるための技術、というものが存在しますが、最終的にはそういった技などを超越した世界になっていきます。だからこそ、100歳の小野小町という設定にする意味があったのだ、と気づきました。

               

              能では、あの世の世界の人、つまり幽霊や、超人的な力をもった神様などをも演じますが、それはある意味で簡単なことなのです。あの世の世界の人なので。中世の時代を考えると、100歳というのは、今の感覚でいうと200歳くらいに相当するのではないでしょうか。しかしそれも人間なのです。

               

              関寺小町の物語は、あの小野小町が100歳になって、ぼろぼろな姿で一人寂しくあばら家に住んでいる。和歌に詳しく文才のある老女が近所にいる、と聞いた関寺のお坊さんが、そこへ稚児を連れて七夕の日に訪れる。そして色々話しているうちに、そのお婆さんが小野小町だということが分かる。それが小野小町の成れの果ての姿だと知るわけです。稚児が舞を舞いだすと、その若さにつられて、杖をつきながらよろよろと昔を思い出しながら、七夕の夜に舞う。というものです。

               

              100歳の小野小町は美貌も金もなく、何が残っているのかというと、若かった頃と変わらぬ『魂』です。能の最終地点は、死が目前に迫ってきている人間の集大成である生き様、心や魂を、舞台上で表すことなのです。そうなると、かえって技などは邪魔になってしまい、テクニックを使って美しく上手に見せることが、一切必要ではなくなります。

               

              能楽の中で私の年代の40代という年代は、技術を追い求める世代です。その先の50、60歳が本当の役者のピークだと言われており、40代以降は、段々と身につけてきた物を、今度は捨てていく作業になります。そのような事を、関寺小町の稽古の最後の最後のほうに悟ることができました。「そうか技ではないのだ、『心』なのだ」と。関寺小町は一時間半の演目で、シテは真ん中にただ座ったままで存在しつづけ、最後の最後に舞を舞います。

               

              本当はやってはいけないのですが、ふと本番中に小野小町に目がいった時、その姿に本当に吸い込まれました。金春信高先生の77歳の人生がそこに凝縮されている、とも感じました。信高先生はとてもご苦労をなさった方で、それまで、紆余曲折のある人生を経験された方でした。その舞台で信高先生には「何かすごい物を見せてやろう、がんばって何かをやり遂げてやろう、生き様を見せてやろう」などという思いは決してありませんでした。とても謙虚なお姿でした。家元の家で生まれ77歳まで能楽を精進しつづけ、こうして関寺小町を周りの弟子やたくさんの方の協力の上で勤めることができた、という感謝しかありませんでした。ご本人は淡々とやり、しかしながらその一挙手一投足が筆舌に尽くしがたくすごかったのです。それを見た時に、これが能楽の最高の世界だと思いました。まだこれから40年はわたしも能楽をしていくと思いますが、完全にあの舞台が人生で最高の能楽の舞台だと言い切れます。

               

              ところが、信高先生は小野小町の姿で、その能関寺小町の終盤に、何と倒れてしまいました。能では地謡は決して何があっても途中で止めてはいけないという掟があります。ですので、先生が、目の前で倒れられているにも関わらず、囃子も地謡もそのまま止めずに続けました。そして後見というシテを手助けする黒子が慌てて飛んできて、信高先生を起こしました。信高先生は、それでも何とかして、杖をついて舞おうとするのですが、再度、倒れてしまいました。それなのに、また起き上がろうとする、という姿に国立能楽堂の満席のお客さまたちは、それが演出なのかどうか呆気にとられ、やがて、そうではないと悟り、客席中がすすり泣きの声が響きわたりました。「このままでは先生が死んでしまう!助けなければ!」と思うのですが、謡も止めることができません。

               

              合計3回先生は倒れられ、それでも立ち上がり舞おうとしていました。続行不可能ですが能は続けなければならず、家元のご親戚の主後見の金春晃實(てるちか)先生が、裃の衣装のままで代役をつとめました。後日、信高先生にお話を伺うと、意識が全くなく覚えていないと言っていました。最後、先生は囃子方の後ろにおられ、その代役の晃實先生の舞が終わると、別の側近の弟子が手を添えて、橋掛かりを歩いて帰っていきました。

               

              先生が弟子に手を添えられて橋掛かりを帰っていく後ろ姿も、一生忘れられません。あれこそ、金春信高という人が歩んできた人生そのものなのだ、と。どんなに後見に止められようが、倒れても倒れても舞続けようとした姿・・・どんなに苦しいことがあっても、明治維新以降、苦労と苦境の連続だった金春流復活の為、奔走し歩んで来られた金春信高先生の壮絶な「生きざま」を物語っているのだ、と思いました。

               

              公演後、控え室に何人もの「自分は医者です」と名乗る方がみえ、翌日先生は病院へ行き、精密検査も受けられましたが、どこにも異常がありませんでした。終わったあと、意識が朦朧とする中で、先生はわたしたち弟子に深々と「申し訳ありませんでした」と手をつき頭を下げてくださいました。舞台がそのようになってしまった、という事に本能でそうされたのだと思います。

               

              金春流は明治維新でとても苦境に立たされ、その不遇が長く続きましたが、信高先生は一代で立て直されました。それはこれから後世の人たちに評価されるだろうと思います。それくらいの功績を上げられた方です。そして、その先生の人生が凝縮された舞台姿を拝見した時に、人間が人間を具現化するという芸術の中でこれ以上のものはない、「能楽は世界最高だ」と確信しました。

               

              ”もう一つ、一生忘れることが出来ない想い出は、東日本大震災の慰霊祭のことです。”

               

              東日本大震災の慰霊祭やチャリティーのときには、いつも能「羽衣」を迷わずやりました。能「羽衣」の主人公は天女です。わたしが「依り代」になることで、「傷ついた東北の大地に天女が降り立ち、復興の寿福の宝を降らしてほしい」というメッセージを込めました。福島県相馬市、宮城県名取市、そして、震災の前から薪能などをさせて貰いご縁のあった、福島県いわき市でもやりました。

               

              いわき市では岩間町岩間海岸という所で、「なこその希望鎮魂祭」というイベント名で、震災一年の慰霊祭という形でやりました。津波ごっそりと家屋がなくなった岩間海岸の土地に野外ステージを立てました。しかしながら、当日は生憎の雨で、直前まで舞台を決行するかどうか悩みました。ボランティアスタッフの方の中のある男性が「こういう素晴らしいことをしているのに雨が止まないじゃないか。どうせ俺たちは天に見放されたんだ。」と腐って怒っていました。それを身近に聴いて、心が痛みました。

               

              通常、能は野外では能面や装束お囃子の楽器は水に濡れると駄目になってしまうので、雨天ではできません。中止にします。主催者から判断を任された私は、一緒に手弁当で来てくれた能楽師たちに相談すると、「鎮魂のために来ているのだから何としてもやろう」ということになり、風が横殴りで雨がザーザーと降る中、始めました。異例中の異例です。すると、能「羽衣」の中盤、天女が羽衣を取り戻し、お礼の舞を舞い始めようとした時です。わたしの能面の狭い視野からお客様達の後ろに瓦礫の山が見えていて、その奥に見えていた天が、何と二つに割れるのが見え、太陽の光がパーっと真っ直ぐに差し込んできたのです。その光景にあまりにも驚き、一瞬役を忘れて呆然となってしまいました。囃子も皆演奏しながらびっくりしていました。

               

              お客様からは、舞っていたわたしに太陽の光が後光が差したように見えたそうです。

               

              そして、羽衣を舞い終えると、雲ひとつない快晴となりました。わたしは終了後、面を取りマイクを手に取り、舞台に再び上がって「皆さん!この空を見て下さい!晴れない空はない。これこそ、『なこその希望』じゃないですか!!皆さん頑張って下さい!!!」と絶叫してしまいました。お客様として見てくださっている被災者の皆さんから、ウワーと拍手が沸き起こりました。先ほど、天に見放されたと言っていた男性スタッフも、笑顔で拍手していました。

               

              能は『鎮魂の芸能』とも言われています。能楽師はそういう時こそ、魂を慰めるために、能は必要だと信じています。そして、それが本当なのだと実感した日。あの雨の日の舞台が急に晴れ上がり快晴となり、そこで能を勤めたことは一生忘れることができません。

               

              去年いわき市の慰霊祭で、その時の羽衣の簡易バージョンを舞いましたが、その6年前の晴れた時のことを覚えていてくださっている方たちが多くいました。当時は雨天の中決行したため、主催者の方は相当なクレームなどもありご苦労されたとのことです。しかし、何よりも被災者の方々が「良かった、励まされた」と言ってくれたことが全てだ、と言っていました。「文句を言われようが問題無い、やって良かった」と今でも胸を張って仰っています。その通りだと私も思います。

               

               

              第三編は、山井さんの一番感動した、「関寺小町」という演目の話と、いわき市での慰霊祭の話でした。山井さんの話されたこの話を、限られた紙面の中で表すことは、ほぼ不可能に近いものですが、少しでも、お伝えすることができたらと思います。第四編では、山井さんが考え実践されている、「能をどうやって、次の世代、世界に伝えていくかを、語ってもらいます。」これは、日本の古典芸能だけではなく、日本的なもの、書道、日本画、ひいては、和紙の製作などにも共通するテーマです。更に、わたしたち、日本人が、これからを、どう生きていくべきかも考えさせらるテーマだと思います。


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                インタビュー ] ”能楽を習うにはどうすればいい?” 金春流シテ方山井綱雄師 インタビュー第二篇


                "能楽を初心者が見るには、何を見たら良いのでしょう?"

                 

                よくお正月に上演され、私が属している金春流(こんぱるりゅう)が約1400年前から演じてきた演目に、「翁(おきな)」というものがあります。エンターテイメント性はなく、純粋な「天下泰平」・「国土安穏」への祈りです。現代でもこんな世界があるのです。 

                 

                翁の役を演じる人間は、精進潔斎をして当日舞台に挑みます。幕の裏側に鏡の間という部屋があり、そこに神式の翁飾りという神棚を作ります。そこにお供えをし、開演前に、総勢30名ほどの全出演者が集まり、お神酒、生米、塩を供し、火打をします。それを、今でもお客さんの見えない鏡の間でしています。厳粛に必ずやっています。舞台上で神になるということから、シテは能面を舞台上でつけ、終わると神が融けるということで舞台上にて外します。

                 

                翁は唯一人、お客様に平伏します。初めに翁が出てきて、その後に全出演者が一列に並び続くという「翁渡り」というものをします。翁渡りは、お客様にではなく、舞台の正面にいると考えられている神様に礼をしているのです。ここでいう神様というのは、特定の神様を指しているのではありません。

                 

                能の表わしている世界は、現代でいうスピリチュアルな世界です。演目によっては、恐ろしい鬼も出てくるので、ホラーのような側面もあります。しかし、現代に比べると昔は今よりも「死」といものがもっと身近なものだったので、スピリチュアルなほうにもっと近かったはずです。現代は、「死」が身近ではない世界になりましたが、昔はいつ死んでもおかしくない、という時代でした。だからこそ、その死の先に何があるのだろう、と考えざるをえなかったのだと思います。能はそういう「あの世」のことを表現しています。ですから、単なるエンターテイメントではないのです。

                 

                能の羽衣

                (画像は山井さんの羽衣)

                 

                初心者の方や、能を知らない方が、ストーリー性を楽しむには、「船弁慶」と「黒塚」(観世流では「安達原」)がお奨めです。それと、わたしが一番好きなのは「羽衣」です。船弁慶だけは1時間20分ほどかかります。黒塚、羽衣は大体1時間の演目です。オリンピックが近づいてきているので、子供向けや若い学生さん向けに公演をしてほしい、というご依頼が増えています。そういった子供や若い人向けに演じる場合は、これら3つのうちどれかをやることが多いです。それと、もう一つ、「土蜘」(観世流では「土蜘蛛」)という演目があります。これは歌舞伎にもなっていますが、能が基になっています。これら4つは能を初めて見る方が見ても面白くご覧いただけで、初心者向けです。

                 

                 

                ”能を習うにはどうすれば良いのですか?経験のない人が、実際に、自分が舞ってみたい、謡ってみたいと思ったら、どうしたら良いですか?”

                 

                各能楽師のHPがありますから、そういうところに問い合わせをしていただくとか、SNSも今は発達しています。一番高い方の月謝で2万円ほど。あとは1万五千円、1万円など。流派や能楽師によってまちまちだと思います。

                 

                回数でいうと、わたしの場合は月二回のレッスンですが、月3回や4回などこれも流派や能楽師によってまちまちで、一概には言えません。レッスンの内容はわたしの場合、個人レッスンで一人20分。舞は3〜5分くらいの短編の舞を、初歩の初歩から、少しずつグレードを上げていきます。個人の課題曲は人それぞれ違います。舞について稽古をして、そして、謡(うたい)も稽古します。舞と謡では、能は謡のほうが難しいと思います。比較的、男性が謡を好み、女性は舞の稽古を好む傾向があります。

                 

                私は、東京都内(赤坂、新橋等の港区内)、門前仲町、横浜、地方では千葉県銚子市、福島県いわき市、埼玉県小川町に教室があります。さらに、東京の青山一丁目のNHK文化センターに初心者講座を、大人の休日倶楽部に座学の講座を、地元の横浜久良岐能舞台にて、教室を開催しています。どうぞ、ご興味がありましたら、お気軽に見学にいらしてください。

                 

                (ちなみにこちらが山井さんのHPhttps://ameblo.jp/yamaitsunao/)(また、アメブロ、フェイスブック、ツイッターもあります。)

                 

                久良岐能舞台での練習

                (久良岐能舞台での夕方の練習風景)

                 

                最初始めるには、なかなか敷居が高いという方には、カルチャースクールやカルチャーセンターという選択肢もあります。カルチュアスクールでも、最近は能の稽古をしているので、良いかもしれません。わたしも青山一丁目のNHK文化センターの青山本校で、月一回木曜日の夜に教えています。半年、続けていただければ、能が面白くなってくると思います。

                久良岐能舞台での練習

                (久良岐能舞台での1対1の練習風景)

                 

                又、能の構えやすり足は体幹トレーニングにもなり、インナーマッスルも鍛えられるため健康に良いです。なぜ能楽師が長寿かというと、すり足によって足腰が鍛えられてインナーマッスルや体幹が強いからです。

                 

                能の腰を入れる所作は、どうやって稽古するのか?人によっては、筋トレをされている人もいますが、自分は、普段の稽古が大事と思っています。能の稽古をすれば、体幹とインナーマッスルが鍛えられて、能の腰になってくるのです。能の構えはスキーを滑っている時と同じです。アマチュアの方やワークショップでも、スキーを滑る時に例えてお話しすると、とても良く理解してくださいます。

                  

                能楽師が70歳80歳になっても、10キロ近い装束を着て、視野が殆どない能面を付けて、1時間半も舞台の上で舞い続けることができるのは、能の摺り足で足腰や体感が鍛えられているからなのです。

                能の摺り足

                (能の摺り足)

                カルチャーセンターのレッスンは場所や流派にもよりますが、一例としては、6000円ほどで、わたしは、地元横浜の久良岐能舞台でも講座があり、グループレッスンも開いています。久良岐能舞台は、横浜の上大岡から行きます。とてもお庭が素敵で、静かで風情があり、一度いらしていただくと分かりますが、能の歴史的な深さを体験できる場所です。ぜひ気軽にお出かけいただければと思います。

                 

                山井綱雄

                (インタビュー風景、実に優しい笑顔で、山井さんに習うのは怖くなさそう。)

                 

                道具としては、装束、面、扇、足袋があります。普段のお稽古の時は、洋服で扇と白足袋だけです。最初から特別しつらえる、ということはありません。中には発表会にむけて、着物を買われるかたもいらっしゃいますが、お持ちでない方にはお貸ししています。最初はできる範囲で続けていただくことが大切です。

                 

                舞を舞うことも謡を謡って声を出すことも、どちらも、ストレス発散になります。マイクを使わないので、お腹から声を出し、地声をどう響かせるかというところから始まります。それこそが、能が能であるために、大事なところなのです。いくら音声技術が発達しても、空気がピンと張り詰めることは、テレビの画面ではなかなか伝えることができません。しかし、その能の伝わりにくい部分にこそ意味があり、だからライブで、生で観て、聴いていただくと、良さを一回で理解して頂けると思います。

                 

                能は、わが国の最高権力者たちによって愛好されてきました。ですので、能は、趣味の中では最高ステータスです。趣味のステータスとしては能以上のものは無いと言えます。昔は将軍、大名からはじまり、特権階級の方々にしか愛好されていませんでした。今では、どなたでも気軽に能を嗜んでいただけます。それはごく最近になってからなのです。

                真田丸

                (NHK大河ドラマ真田丸でのシーン)

                 

                ”初めてやろうと思っている人間には、能の五流派というのが分かりづらいのですが?”

                 

                能楽には5つの流派があります。一番所帯が大きいのが、観世流(かんぜ流)。そして、一番新しいのが、江戸時代にできた喜多流(きた流)、それでも400年になります。そして、金春流(こんぱる流)、宝生流(ほうしょう流)に金剛流(こんごう流)があります。観世流、宝生流、金剛流は、室町時代の観阿弥・世阿弥父子の時代の頃が起点になっています。

                 

                一方、私の属している金春流は、飛鳥時代に遡ります。聖徳太子の後見人といわれた、「秦河勝(はだのこうかつ)」という渡来人を始祖としています。ですから、金春流は、歴史的にみると一番古くからある流派です。現在の我が宗家の金春憲和師は81代目を数えます。他の流派のご宗家が20−26代であるのに比べてみても、金春流の歴史の長さを感じていただけると思います。

                 

                わりと、皆さんから勘違いされているのは、能楽は世阿弥がゼロから創作したものではありません。彼は、様々な先行芸能をミックスしてオーガナイズしたのです。能はある意味ハイブリッドな芸能なのです。そんな中で、金春流は、古来からの宗教的アトラクションをしていた流派です。所謂、自然崇拝、シャーマニズムです。他の流派と違って、金春流は、現在でも奈良を拠点にしています。1000年前より、春日大社で神事の舞を、今現在でも奉納しています。能舞台の背景の松の絵は、春日大社の一の鳥居横にある「影向(ようごう)の松をモデルしたと考えられています

                 

                流派によって何が異なるのかというと、舞方と謡(うたい)の節のメロディーが流派によって異なります。よく見慣れている方なら見比べて、その違いを認識できるかもしれませんね。具体的には、基本形はありますが、動き方が全然違います。

                 

                観世流と宝生流は少し似ています。また金春流と観世流とは全く違う動き方をします。台詞が流派によって違うということもありえますが、台本の本文自体は8〜9割がほとんど共通のものです。メロディー、つまり謡の節が違います。

                 

                それぞれの流派によって、特徴やアイデンティティがあるので、それが時代を経て特色として出てきているのだと思います。金春流は野外で行っていた歴史が長いので、昔ながらで、古式を重んじて型を大きく扱います。手を大きく広げて、オーバーアクションで、声も大きく出します。やはりそれらは野外でしていた歴史が長かったことが根底にあるように思います。そして、ほかの流派は、中世の時代に京都に早くから進出していき、都会に出ることでモダンな洗練された芸風になりましたが、金春流は、京都で上演することはもちろんありましたが本拠地は奈良のままでしたので芸風が素朴だとも評されます。

                 

                具体的に言うと、写実的な型をすることがあります。「鉄輪(かなわ)」という演目があり、先妻の女が、自分を捨てて後妻をとった夫を呪うという曲で、その中で女の怒りのスイッチが入った時に、装束の裾を捲り上げる型があります。それは、かなり写実的な所作です。

                 

                “金春流には、どういう経緯で入られたのですか?”

                 

                私の母方の祖父は、金春流の能楽師でした。梅村平史朗といいます。私は外孫です。私には兄が二人いますが、能はやっていません。母の兄、つまり伯父の一家も能をやらなかったです。昭和の高度成長期は、欧米化が盛んに叫ばれ、日本の伝統文化は否定され、嗜好される時代ではなかったのでしょう。

                 

                小さい頃、祖父の家に遊びに行ったときに能面図鑑を見ていたんです。それに気づいた祖父が、綱雄は、能に興味があるようだと言っていたそうです。そのころ祖父は、病気だったので、私は病床の祖父しか知らず、祖父の舞台を見たことがありません。私の初舞台の三か月後に、祖父は亡くなりました。祖父の芸は、祖父の高弟であった女性能楽師のパイオニア、富山禮子先生に教えていただきました。

                 

                小学校6年生の時、祖父の7回忌追善能の舞台で初めて、シテを勤めました。演目は「経政」でした。その時に、能楽師になるんだと決意したことを覚えています。その後、私は金春流79世宗家金春信高先生に師事しました。小学5年生の時に、直弟子になって以来、信高先生より手取り足取り「金春宗家」の芸をご伝授頂きました。

                 

                第二編は、ここまでです。能には、興味があるけれど、どういう風にしたら良いか分からない。いや、この記事を読むまでは、能を習うなど考えたこともない人のためのガイドとなるような記事になれば良いと思います。第三編では、その山井さんが「一番感動した」のは、という話です。この話をしていただいた時、約一時間ぐらい、その話に聞き入ってしまいました。


                 

                 


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                インタビュー ] 「能楽はマインドフルネス」  金春流シテ方山井綱雄師のインタビュー 第一篇 


                今回、ご紹介するインタビューは金春流能楽師の山井綱雄さんです。

                 

                筆者は、今まで能楽とは全く無縁でした。昨年の11月に、横浜の久良岐(くらき)能舞台で、山井師にインタビューをさせていただきました。さらに、昨年の年の瀬もおし迫った29日にお会いして、じっくりとお話を聞いてきました。山井さんは、NHKの大河ドラマ「真田丸」や「江姫」などでの振り付けもされた方です。江姫のオープニングでの上野樹里さんが手を合わせて舞いをす終える振り付けといえば、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

                 

                多分殆どの人は、普通、能楽を見たことは一回あるかないかでしょう。正直に言って、筆者もそうでした。能楽とは縁遠い生活を送ってきた人生でした。しかし、山井さんにお話を伺うと、能に抱いていた精神的なハードルを取り除いてくれました。今回、山井さんは、全く能楽に触れたことのない、所謂、初心者にも分かるように、説明していただきました。

                山井綱雄

                 

                能楽は、マインドフルネス

                 

                人間には、人間らしく生きるために必要なものがあると思います。医療が発達して寿命が延びていますが、こころを見つめ直しリフレッシュさせることが、現代では、置き去りになってしまっています。

                 

                「高砂」という演目があるのですが、主人公は住吉大社の神様のことです。能楽の中でも古い様式のものです。高砂は、ストーリーやドラマ性を楽しむものではありません。しかし、見終わった後に、モヤモヤ悩んでいたことやストレスがスッキリし、心が洗われるような感覚を感じていただけます。

                 

                能にはそういう作用があります。それが、他の芸術との決定的な違いです。これは能のルーツが神様や仏様に捧げるものであったというところにリンクしています。もちろん、能は新興宗教ではありません。遙か古からの人々の祈り、シャーマニズム原始宗教から繋がっているというところで、結果としてそうなっているのだと思います。

                 

                亡くなられたアップルのスティーブ・ジョブズやフェースブックの創始者のザッカーバーグは、日頃から座禅を組み瞑想をしている、というのは有名な話です。それは人間にとって、人間らしくいるために必要な時間だと彼らが認識していることに他なりません。今、世界の脳神経外科では、そうすることをマインドフルネスと言うそうです。能は、マインドフルネスを体験できる演劇なのです。

                 

                しばらく前に、NHKを見ていた時、日本の脳神経外科の第一人者の教授が、「公園などを散歩して、難しいことなど考えずに、景色を楽しみ、風や空の美しさを感じるだけで、それで十分マインドフルネスなのです。」と、仰っていました。その番組の最後に、その先生が、「日本には昔からマインドフルネスが存在していました。能やお茶など、あれはまさにマインドフルネスです。しかし現代の日本人はそういう事を忘れてしまっているのです。」と話されました。わたしは「やっぱりな」と、手をたたいて納得しました。能を知らない方が、たとえ舞台でやっていることが、全て理解できなくても、見終わった後に、なんとなく心がスッキリする・・・能にはそういった心を浄化する作用があります。

                 

                 

                能は周りに迷惑をかけなければ、居眠りしても良い

                 

                そもそも能は眠くなるようにできています。夢現(うつつ)の世界を具現化していて、一種の催眠状態にするため、笛も地謡というコーラス隊も耳に聞こえない音をたくさん出している、と解明されています。出演している人もアルファ波が出てトランス状態になり、そういうのが客席にも伝わり眠くなります。実は舞台で、後見の人や地謡(コーラス)をしている人も眠くなります。眠くなってはいけない、ということはありません。

                 

                ある観客の方は、居眠りをしながらふと目を開けた時に、「ああ、能をやっているな」と舞台を見て、夢うつつを味わいながら、こっくりこっくりするのが至福の時間だと言われます。また、あるお客様によると、「不眠症の方は能を見ると一発で効く、よく眠れる。」と言います。「能楽堂に寝に行きましょう」などと言って、他の方を誘ってくださる方も実際にいます(笑)。必ず最後まで起きて見なければならない、というのは現代人の考え方です。ひとつの瞑想状態で、普段とは違う波動や空間に身を置くことができます。まさに能は異空間なのです。

                 

                 

                能は「間」の芸術です

                 

                その異空間というのがお茶室にもつながります。お茶、能、禅、この3つは中世の時代に、密接に関わっており、その根本精神は一緒です。その根底の概念には、そういった「目にみえない何か」というものに、日本人のこころが存在しています。「目に見えない何か」というものに対して畏敬の念を持ち、「目に見えない何か」が大切だ、と考える感覚です。それが、「間」と言われています。まさに能は「間」の芸術です。「間」が抜けると“間抜け”なのです。「間」は何も無いのだけれど、決して無いわけではなく、そこに大きな意味があります。能の音楽では、音を出していない無声、無音の瞬間、空間である「間」を大切にしています。

                 

                日本の古典文化にも言えることですが、能の舞台では余白を大事にします。シテ(主役)、ワキ(脇役)、囃子方(笛、小鼓、大鼓、太鼓)がいてあとは何もありません。例えば雪が降ってきた、という設定でも雪は降らせませんし、赤々と山が夕日に染まるシーンでも、赤い照明を使うこともありません。シテが、舞台にポツンといて、周りに余白がたくさんあります。そこから先は見ている人の「想像力」が大切なのです。

                 

                このことを私は、よく絵画に例えます。西洋画は写真のように写実的でカラフルであるのに対し、水墨画は墨で書かれていて何もない空間があります。それは書も同じで、墨の濃淡と余白があります。その余白を大事にしています。そこは見ている人の想像力で埋めることによって、いかようにも見ることも描くこともできます。つまり、いかようにも解釈して良い余地を残しています。能もそうなのです。何もない部分は、見ている人の想像力で埋めてもらい、どう解釈していただいても構いません、という余白をわざと残しているのです。

                 

                例えば、能の「羽衣」という演目を鑑賞いただき、「三保の松原の景色はどんなでしたか?その絵を描いてください」と言うと、当然人によって違う絵が出来上がります。能はそれで構わないと思うのです。全てが正解なのです。また同じ羽衣を見るにしても、5年後、10年後、30年後・・・と見る方の年代、年齢、人生経験でも捉え方が違ってきます。それで良いのです。しかし、歌舞伎や現代劇ですと海岸、空、山、それらの色、形、全てが舞台装置や照明などで指定されています。

                 

                 

                能舞台こそが異空間

                 

                能の舞台というのは、今でいうスピリチュアルな世界です。お正月だと上方に「しめ縄」を張ったりします。「結界」であるという意識の表れです。能の舞台に上がるには、必ず足袋を履かなくてはいけません。能の舞台の四本柱は、ただ単に屋根を支えるためでなくて、異質な世界、客席からは立ち入れない世界であることを区別するためにあるのです。

                金剛流能楽堂

                (能舞台は全て、四本の柱で囲まれている。)

                 

                五色の幕は、一説には陰陽五行からきていると言われています。「木火土金水」です。あの五色の幕の向こうにある異次元の世界から、シテ(主役)は橋を渡ってきます。長い花道のような廊下は、「橋掛り(はしがかり)」といいます。古い能では、舞台から、五色の幕に向かって、少し傾斜しています。黄泉の国といいますか、異界を表しているのです。「能面」という仮面をつけているのは人間ではないものを表しています。能が表現しているのは、人間ではない異次元の世界なのです。

                 

                久良岐能舞台

                (久良岐能舞台の橋掛り)

                 

                ところで、余談になりますが、五色の幕の裏には、「鏡の間」という部屋があって、シテはそこで精神集中します。「鏡の間」には巨大な三面鏡があります。その前に座れるのは能のシテだけです。その鏡の前で、役を憑依させるのです。昔は、家元というリーダーだけがシテをやることになっていました。シテが舞台に出る時は、周りの能楽師は正座して送り出します。又、シテが戻ってくる時は後見が平伏して迎えます。しかし、現代では、経験の少ない若手でも、シテをやることがあります。そんな場合でも、全員、家元も長老も、正座して送り出し、そして出迎えます。能におけるシテというのは、そういう特別な存在なのです。

                 

                能舞台は、正式には北向きに建てられています。神様が北に存在していて、南を向いていらっしゃる、という考え方です。また、神様は目の前ではなく、正面席のお客さんの後ろのほう、にいてご覧になられているという考え方もあります。中世の時代になると、足利義満以降の天下人は、能を、権威付けに使っていたと言われています。

                 

                豊臣秀吉や徳川家康など以降の将軍や大名たちは、能舞台正面の後ろに鎮座して能を見物していました。特に秀吉は天下人になり、自ら能のシテを勤めてたりして、能を権威付けに利用したと言われています。

                 

                第一編は、ここまでです。第二編では、経験のない人が能を見るにはどうしたら良いのか、そして、能を習うにはどうすれば良いのかを聞いてみました。第二篇は、一週間後にリリースします。

                 

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                  インタビュー ] 太田こよみさんー京都の和紙の店「楽紙舘」店長さん


                   

                   今回のインタビューは、京都の和紙と和雑貨の店の楽紙舘の若い美人女性店長の太田こよみさんです。最初にインタビューをお願いしてから約半年、去年の12月に、ついに実現しました。       

                   

                  太田さんが働いておられる楽紙舘とは、私ども「和紙はお好き?」も、お世話になっています。太田さんは30代前半、京都の有名な和紙と和雑貨のお店、楽紙舘の店長をやっておられます。女性の社会進出は、日本では、なかなか進んでいないのが現実ですが、太田さんは、輝く日本の女性の代表選手の一人です。

                   

                   その楽紙舘のお店は、京都文化博物館の入っているビルの高倉通側の一階に面しています。三条通りにも近く、まさに、京都の商業地の中心界隈です。

                   

                  (楽紙舘の外観、京都文化博物館の入っている一階の北東側のコーナーにある。入口に近いところに和雑貨、奥には、日本中の和紙を販売しています。)

                   

                   

                   

                   

                  “大学を卒業して10年。今、仕事が楽しいです。” 

                   

                  大学は、国文科で古文、特に源氏物語が卒論でした。美大の卒業ではないし、こういう風なキャリアになるとは思っていませんでした。楽紙舘の和雑貨のメインの商品に、源氏物語をあしらった物がいくつもあります。そういう意味で、源氏物語を専攻していたのが、雇ってもらえる鍵だったのかもしれません。当時から今でも、楽紙舘の商品は、文学的なものを入れたものを作りたいというのが、舘主の方針でした。

                   

                  楽紙舘の一筆箋は、源氏物語絵巻をデザインしている楽紙舘の旗艦商品)

                   

                  楽紙舘は、現在、12人で仕事をしています。仕事は、季節ごとに変えるディスプレイ、スタッフのスケジュール管理、仕入れ、事務的な仕事、展示販売での出張、そして何よりも、お店での接客の仕事があります。働きやすさという点と、一緒に働いているみんなが紙を好きという点で、良い職場だと思います。私よりも年上の人で、紙のことにすごく詳しい人もいます。みんな長く勤めてくれています。大変なこともたくさんありますが、今の仕事は楽しいです。

                  (お店の中の太田さん)

                   

                  今は、スペースの関係でやっていませんけれど、前は和紙の手漉き体験なんかもやっていました。紙漉き体験では、小学校の卒業証書に使うものを作ってもらったりしていました。

                   

                  楽紙舘の本社は、上村紙株式会社という会社ですが、そこの上の人たちも、私たちがやりたい事をやっていいという雰囲気があります。自分の好きなことをやらせてもらえて、周りの人との関係も良いし、恵まれていると思っています。やりがいがあるので、こんなに長く続けることができたのだと思います。

                   

                  京都楽紙舘の女性店長

                   (忙しい中、昼食を取りながらのインタビュー)

                   

                   

                  “会社に入った頃には、和紙のことは全く知りませんでした。”

                   

                   

                  楽紙舘の前会長の上村芳蔵は、和紙總鑑という全12巻の和紙の辞典を作る委員会での仕事に携わっていました。生産者一人ひとりを調べて、どんな紙を作っているかまで書いてあります。実際にどんな紙なのか、実物も入れています。今は、後継者がいなくなった漉き場の紙も掲載されています。これは、英語にも翻訳してあって、パリのルーブル美術館や、大英博物館には置いてあります。

                   

                  楽紙舘、和紙總鑑

                   

                  そういう会社の性格もあるのかもしれませんが、楽紙舘では、日本全県各地の手漉き和紙の生産者とお付き合いさせていただいております。ただ、紙漉き一本で生計が立たなくてなっているところも多いと思います。それで、後継者がいなくなっているところも多いです。

                   

                  今の社長をはじめ、特に、昨年99歳になった前会長は、常に新しいものに挑戦していると思います。私たちに、インテリアで和紙を使うということを、もうずっと前から、考えさせています。私が、入社したのが10年前ですから、その頃、既に、80歳代後半でした。

                   

                  最近は、紙の原料になる楮を作る人が減っていて、値段が高くなってきています。機械漉きの和紙はきれいでお値段的には安いけれど、お客さんには手漉き和紙の持っている温かみをも知ってもらいたいです。

                   

                  桜柄の和紙

                  (桜柄の和紙には、春を伝える温かみがある)

                   

                  最近、越前に行ったら、雁皮(がんぴ、和紙の原料となる植物で、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)と並んで、よく使われる原料)を、栽培できるようになったとおっしゃっておられました。雁皮は、もともと、野生のものしかなく、さらに、成長が遅いのです。一年で育つようなものではないのです。だから、数が取れない。一方、雁皮を使った和紙は、滲みがあまりでなくて、光沢があるので、きれいです。かな文字等の字を書く際に使われています。三椏は、精巧な印刷にも耐えることができます。日本のお札にも使われるぐらいです。そういう特徴があります。

                   

                  又、お客様とお話する中で、だんだんと和紙について勉強させていただくことができました。温かみのある和紙

                  (和紙には、色々な種類がある。その素材によって、光沢、肌触り、厚み、見た目、全部違ってくる。その触感は、洋紙のつるっとしたラッピングペーパーとは、全く違うものである。)

                   

                   

                  確かに、太田さんは、商品や和紙について詳しい。インタビューを始める前に、何種類かの和紙を買うので、それぞれの紙の性質について、教えていただいた。どんどん、新しい質問をしても、しっかりと答えられていく。 紙の性格や色合いについても、的確だった。又、今回、お店を訪れる数日前に、土佐の典具帖紙を見たいと電話で聞いた時、たまたまその日は太田さんが休みの日だったが、電話に出られた店員の方に伺ったところ、その人が詳しく教えて下さった。更に、数日後にお店を訪れた時に、自分が典具帖紙について質問していたことが、太田さんにしっかりと伝わっていた。電話で、「和紙はお好き?」の橋本ですと、最初に挨拶しただけだったのに、これには驚かされた。素晴らしいチームプレーだった。

                   

                   

                  “普段使いで、生活の中に和紙を使うことを提案しています。“

                   

                  私たちが心がけているのは、紙の使い方を提案していくことです。その中では、特に、インテリアで使うのが、入りやすい切り口だと思います。今まで、和紙を使ったことが無い人は、この紙ってどういう風に使えばいいのって、質問されることがあるんです。そういう方に、灯りに和紙を使うのを奨めるとか、普段使いで温もりを感じてもらえるようにディスプレイを心がけています。

                  緑いろの和紙は、インテリアに使える

                  (緑色の和紙を取り混ぜて、インテリアのアイデアが浮かぶ。左から、土佐板締め紙、阿波雪花染紙、オリジナル雲龍板締め紙、黒谷型染紙、楮もみ金砂子)

                   

                  今は、デジタルの時代ですよね。そんな今だからこそ、実際の紙の手紙を渡せば、喜んでもらえると思っています。誕生日のカードや、お礼状とか。例えば、文香なんかも、手紙を開けた時に、手紙に添えて入っていれば、受け取った相手の感じる印象は、デジタルでは絶対に味わえないものです。自分でも、時々、紙を使ってカードを作ったりします。この事について、太田さんは、自信を持って話をされていました。

                   

                  楽紙舘の文香

                  (文香は、手紙の中に一つ入れておくと、受け取られた方が開封した時に、香りがする。生活に潤いを感じさせる商品で、わずか280円で五種類のカラーが入っている。)

                  この商品は、こちらからお求めすることができます。

                  http://www.doyoulikewashi.com/?pid=127728857

                   

                  楽紙舘の一筆箋

                  (源氏物語をあしらった一筆箋は、楽紙舘の旗艦商品。ちょっとしたお礼を一筆箋に記して、文香を忍ばせて差し出せば、貴方の株が上がることは間違いないです。)

                   

                  昔は、紙を買う方は、全紙(90cm X 60cm)でお買い求めされることが多かったです。しかし、最近の需要家は、もっとサイズの小さい紙、例えばA4ぐらいを、何種類も買っていく方が増えています。和紙を使う人といえば、版画、切り絵、ちぎり絵、和紙人形、折り紙と用途は様々ですが、それぞれのニーズにあった物を提供できるようにしていきたいんです。だから、全紙でなくても良いのです。

                   

                   

                  “私たちの仕事は、漉き場と消費者の間に立っていると思っています。“

                   

                  例えば、ディスプレイを変えたら、売れ行きが違ってくることが良くあるのです。それと、季節性については、とても気を使っています。今の季節(暮れ)だったら、赤とか金を使ったようなものが良く売れます。ハロウィンの頃には、それに合った商品を出して、見せるようにしています。

                  楽紙舘の金小紋かんはた

                  (金小紋かんはた)

                   

                  消費者の方は、島根地方の漉き場には、普段からは行きにくいと思います。しかし、楽紙舘は、京都の市内の交通の便のいい所にあるので、うちにいらっしゃれば、それが手に入ります。うちにいらしてくれれば、土佐紙も、美濃も、越前とも、日本各地の和紙を、比べることができます。

                  草木染めの箸置き

                  (楽紙舘の商品:島根県の和紙メーカーの作った草木染めの箸置き)

                   

                  外人の方も、お店にはよくいらっしゃいます。和紙について、大変よく研究されていて、京都にいらして楽紙舘をめがけて来られる方もいます。比較的、ヨーロッパの方が多いように感じます。そういう方たちも、日本全国の漉き場に行くわけにはいかないから、私たちが間に入っているわけです。

                  京都楽紙舘の和紙

                  (楽紙舘のお店の棚には、日本全県から集めた色々な和紙が揃っている。)

                   

                   

                  “インタビューアーの独り言”

                   

                  インタビューを受けてくださった太田さんに、大変感謝しています

                   

                  当ブログでは、クリエーター、和紙や和雑貨の生産にたずさわる人々や、日本文化の承継者の方々を中心にしてきましたが、その視点だけでは何か欠けていると、常に感じていました。クリエーターだけに焦点を当てていると、和紙、和雑貨、日本文化を最終需要家に販売している多くの人々がいるのを忘れがち。そういう意味で、実際に、クリエーターや消費者の仲介をしている今回の太田さんのインタビューは、絶対に欠かせないピースです。

                   

                  太田さんと商売の話をしていると、その知識の深さに圧倒されます。このインタビューでも、雁皮、三椏などの和紙の説明もさることながら、一番びっくりしたのは、どうやれば、需要を掘り起こすことができるかを、常日頃から、深く考えていることでした。まさに、現場の声を聞かせてくれました。30代前半の年齢で、そういう意識を持っておられることに、びっくり、いや、素直に感激しました。それだからこそ、楽紙舘でも、太田さんを店長に任せているのだろうと想像します。

                   

                  クリエーターだけでは、あくまで自分が作りたい物を創ってしまう。しかし、販売をする人は、その商品の良さをどういう風に、お客様に伝えていくかを、必死に考えて実行しているのです。今回、太田さんが語ってくださったことは、和紙の成長は、インテリアに使うこと、そして、普段使いをお客様に届けるということでした。こういう視点が、生産者やクリエーターにも、必要なのではないでしょうか。そして、それは、和紙や和雑貨だけではないはずです。時代から、取り残され始めている古典芸能や、コスト面でなかなか勝てない商品を販売している店などにも通じるものがあると思います。

                   

                  この記事が、この業界に入ってみたいと思っている女性や若い人たちにとっても、役立つ記事になればと思っています。とにかく、今の仕事が楽しいと自信を持っている太田さんの言葉は参考になると思います。


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