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インタビュー ] 「セザンヌと鉄斎」 山岸恒雄


 

 

山岸氏は、ある大手の電機会社の外国為替に長年携わってこられた方である。その山岸氏が本を出版された。本の名前は、「セザンヌと鉄斎」である。どういう経緯を経て、大手メーカーの外国為替部の統括という外為市場の最先端の要職を勤めておられた方が、美術関係の書籍、それも相当の専門性の高い本を執筆されたのか、実に興味深い。今回、大阪を訪れて、その話を詳しく伺った。海外赴任をされていた時や国内でも時間を見つけて、美術館巡りをされていたそうである。その山岸氏、現在、70歳にならんとしておられる。57歳までは、会社勤めをしていた方である。退職後、美術大学の大学院で勉強され、指導していただいた教授に、研究成果を本にするように勧められたそうだ。退職を契機に、それまでの人生と全く違った方向に進まれている。現在は、自ら筆を執って絵を描かれている。今年の四月には、グループ展も開かれると伺った。山岸氏の生き方や、この本は、これからの退職後の人生を考える人の生き方の指針となるのではないかと思う。

 

セザンヌと鉄斎 山岸恒雄

 

ところで、セザンヌも鉄斎も名前は聞いたことがあるが、詳しくは知らないという人が多いのではないだろうか?実際、山岸氏とお会いするまで、筆者も、全くといっていいほど、この二人についての知識は無かった。

 

そこで、簡単に説明というわけにはいかないのだが、どんな芸術家だったかを、簡単に要約してみる。

 

セザンヌは、1839年、フランスのエクスという町で産まれた。一般的な説明としては、印象派の画家といわれているが、どうも、単純にはそうではないようである。そして、1906年に67歳で亡くなる。山岸氏の本によれば、「セザンヌは大都会パリに馴染めず、心は常にプロヴァンスの自然と強く結びついていた。」山岸氏は、セザンヌの19歳の時から亡くなるまでの236通の手紙と、セザンヌが友人たちから受け取った手紙や、友人同士の書簡の98通で、今回の研究に重要と思われるものは、原語で読み研究されたそうだ。その中では、ゾラへの書簡が82通と多いのだが、後年、彼とは、絶交する。そのセザンヌの変化なども、学術研究の本というよりも、普通に、読み物としても面白い本である。山岸氏は、すべての手紙を精読されて、その中からセザンヌが抱いていた自然観の変化を読み解いていく。

 

セザンヌの自然観が東洋的であるというのは、山中で瞑想、画筆を執る前に一時間も瞑想することがあったという。その事をガスケに問われた時のセザンヌの返事は、文明人としての自らを覆っている「容易なもの」を打ち壊して、無邪気、無知に戻らなくてはと説明している。山岸氏は、セザンヌのような自然観が西洋にあっては極めて珍しいということは、それが、ゾラにも、ベルナールにも全く理解されなかったという事実がある程度照明していると、結論づけておられる。

 

一方、富岡鉄斎は、1836年から1924年にわたって生存・活躍している。鉄斎はセザンヌと正反対に、官に認められて活動している。京都に生まれて、育ち、没している。ちなみに、京都中京区にあるいくつかの店(菓子屋、本屋など)の看板は、鉄斎が描いたものとのこと。特徴がある書体なので、寺町を散策する機会があったら、ぜひ、鑑賞されるのも楽しいと思う。京都では、鉄斎は熱烈に支持されていたそうだ。また、宝塚には、鉄斎美術館がある。

 

山岸氏は、セザンヌと鉄斎に接点は無かったという。ただ、その同質性については、以前より指摘はあったので、それを、博士論文の研究テーマにされたという。同質性かどうか、分からないが、本の表紙や、中に出てくる作品を眺めてみると、なるほど似ているところがある。

 

「セザンヌと鉄斎」の口絵より、ポール・セザンヌ『ビペミュスから見たサント・ヴィクトワール山

 

 「セザンヌと鉄斎」の口絵より、富岡鉄斎『夏景山水図』

 

山岸氏の著書の中には、セザンヌと鉄斎を比較するうえで、‘表顱↓⇔更圈↓3┐畔験悄思想の関係、ご嬰犬箸隆愀検↓ド景画の描き方、生業を考察しながら、この二人の巨匠を分析されている。それによると、反対の生き方や考え方をしているのだが、鉄斎は、「自分の一生には、ただ山を見る楽しみだけがある。」セザンヌは、「自然の事物が常に私に喜びをもってこれらを眺める機会を与えてくれる」ところに、共通点を見出している。

 

著作の中には、山岸氏の実際の模写や写真、そして、いくつものセザンヌと鉄斎の作品の写真が載せられて、それを見るだけでも面白い。実際、美術館を巡り、絵の描かれた場所を訪ね、そして、書簡を原語で読み、さらに、博士号まで取ってしまう。そして、現在は、絵を描いて楽しんでおられるという。こういう定年後の過ごし方にはびっくりさせられる。氏の話では、大学院では、教授と一対一の原語でセザンヌの手紙を読んだり、日本画の手ほどきを受けたりと、素晴らしいところだと感じたそうだ。よく、第二の人生の過ごし方などというが、実に、興味深い経験談であった。絵画に興味のある方、定年後になにをしようかと迷っておられる方には、ぜひ読んで頂きたい珠玉の名著である。

 

「セザンヌと鉄斎」同質の感動とその由縁

著者:山岸恒雄

思文閣出版

 

 


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    インタビュー ] 書家「金森朱音」は、一文字の詩人ーインタビュー後編


    JUGEMテーマ:書道

     

    「前編の最後に、出産をしてから、作風が変わってきたところがあると話されましたけれど、そこのところをもう少し詳しく話していただけますか?」

     

    出産を経験する前の私の書には、ネガティブなものが多かったと話しましたが、それは社会に対しての反発や怒りがあったと思います。それを書で表現することで、自分の心のバランスを取っていたのだと感じています。

    金森朱音

    (Photo by Ayumi Yamazaki)

     

    更に、テーマの中心は「破壊」でした。跳びはねるような雰囲気で、筆もたたきつけるように書いていました。色彩的には、黒と赤が軸になっていました。今も、その反発心は失っていないのですが、破壊に対して創造に目が向いてきています。それは破壊と対になっている、アンサーソングのような感覚で、表現方法も柔らかくなってきた気がします。以前は白という色はあまり受け付けなかったのですが、今は白色のイメージも増えてきています。

     

    この作品を見てください。

    「生きる」(Photo by Ayumi Yamazaki)

     

    これは、「生」という字を数えきれないほど重ねて書いてあります。目に見えるものが全てではなく、視界からの情報だけにとらわれずに、指先から感じ、頭の中で想像するのと違ったものが見えるかもしれないということを伝えたかったので、あえて白いキャンバスに白い塗料で書いてあります。ひたすらに「生」という字を重ねて、盛り上がったり尖ったりしている部分に実際に触れて欲しかったので、手を入れて撮影しました。

     

    この作品を書く数週間前に、祖父が亡くなりました。祖父の死を受け入れずにいた私を救ったのがこの作品です。キャンバスに吐き出すことで、自分の感情と向き合うことできました。私にとって表現することは、生きる希望なのだと強く感じています。

     

    「生きる」の拡大写真 (Photo by Ayumi Yamazaki)

     

    私の書は、一般的な書とは違うかもしれません。「私にしか書けないもの」を書いていきたいと思い制作していますが、私は書道が好きなので書家としての力もつけていきたいと思い、一昨年初めて毎日書道展に出品しました。これは私にとって一つの挑戦でした。やはり、書壇からは認められないのではないか、私の技量はその域に達していないと判断されるのではないかと不安でした。出産後に創作活動を再開し、自分の中での再起という意味で、「起」という字を選びました。初めての公募展への出品でしたが、幸い佳作賞をいただくことができました。

    金森朱音「起」

    「起」  (photo by Ayumi Yamazaki

     

    女性のアーティストは、結婚・出産という活動が止まってしまう時間があるのが悩むところです。さらに、育児という時間的な制約もあります。ですから結婚・出産を選択して、アーティストとしてのキャリアを諦めるか、なんとか両立させるかになります。

    両立させる場合、家族の協力はもちろんのこと、社会の協力が欲しいですね。子育て支援についていえば、保育園の入園要件は、就労日数や就労時間が地域によって決められていて、現在は待機児童が多い為、職業がアーティストだけでは預かってもらうことはかなり難しいです。私の場合は、非常勤講師もしているので預かってもらうことができています。さらに家族や主人の両親も協力してくれているのでとても助かっています。

     

     

     

    現在、教員、主婦、母という三役をこなして、娘を寝かしつけた後、夜の11時過ぎから創作活動を始め、気が付くと夜中の2時頃ということがよくあります。自分のやりたい事なので苦ではないですが、一日の終わりに制作を開始するいうのは、モチベーションを持ち続けることが難しいです。学生時代より、制作時間はかなり減ってしまいましたが、書くことができない時間に頭の中で構想を練り、限られた時間の中で作品を作り上げる力が少しずつついてきたかなと思います。

     

    後輩たちにアドバイス

    自分の夢や、やりたいことを見つけてほしいです。自分はどうなりたいのか?その為にはどうするべきなのかを考えることが大切だと思っています。高校生や今の若い世代の人たちは、何においても「なんとなく」でやり過ごしている人が多い気がします。勿体ないです。

    私は高校生の頃、井上有一という作家に出会い、人生が変わりました。井上有一の作品には社会に対してのメッセージがあり、このような表現方法もあるのかと衝撃的でした。そこから私も表現者として書くべきものを書いていこうと決めました。この思いは今でも私の芯となっています。これからも「私にしか書けないもの」を目指し、日々表現していきたいです。

     

    井上有一:書家。19歳で公立小学校に奉職。定年まで教師をしながら、創造的な書作品に取り組んだ。絵画の領域に踏み込んだ作品で、国際舞台で活躍。没後も国内7つの美術館を巡回する回顧展が行われ、書の母国である中国の美術館が相次いで大個展を開催する。(https://intojapanwaraku.com/art/20170711/16638

     

     

     

     

    インタビューアーの独り言

     

    私が金森さんにお会いしたのは、201811月に小田原のお堀端画廊で開催されていた永田灌櫻さんの書展だった。以前から、永田さんは、金森さんの話をして、一度インタビューされては如何ですか?と話されていた。

     

    実際、お会いして感じたのは、金森さんの作品は、一文字の詩。金森さんは一文字の詩人のような気がしたのです。例えば、この「子」という作品をご覧ください。この子という字には、母としての慈しみというようなものを感じます。実に、優しい筆使いだと思います。丸っこさが、まるで赤ちゃんの手のくびれのような雰囲気。子供には、角が無いという気持ちをこの一文字で表しています。この字は、楷書でも行書でもない。全く、お高くとまっていない、しかし、心に響くものがあるのです。

     金森朱音 「子」

    「子」(Photo by Ayumi Yamazaki)

     

    インタビューの中で触れられていた「アーティスト専業の親の子は、保育園に入園する場合、認可が下りるのが難しく、ハードルが高い」という話も、大変気になります。現在の、日本の状況、社会の子育てに対する非寛容さ、アーティストや芸術を軽視している日本の政治行政の民度の低さを嘆くしかないのでしょうか? 声を大にして、変革を求めたいと思うのですが、如何でしょうか?

     

    そして、何よりも、今回紹介した金森さんの作品群。魂を揺さぶられるような「3.11悲鳴-3.11生死」。一人の書家として、書壇にはあまり見られない社会への訴えかけは、いつか必ず、日本に世界に受け入れられていくのではないだろうか。

     


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      インタビュー ] 書家「金森朱音」は、一文字の詩人ーインタビュー前編


      JUGEMテーマ:書道

       

      金森さんは最初に、「これが22歳で大学を卒業するまでの私の作品です」と言って、作品集を見せてくださった。それは、42ページに渡る写真集だった。プロフェッショナルとしての出発の狼煙のような作品集だった。正直、今までいくつかのポートフォリオを見る機会があったが、この作品集には他にはない存在感がある。

       

      金森朱音ポートフォリオ

       

      「この作品集の中に、20歳前後の自分がいます。その頃の私は、社会への怒りや反発、反抗心でいっぱいでした。作品に出てくる言葉は、どちらかというとネガティブなものが多かったです。「破壊」から生まれるものがあるという考えでした。右向け右のように、周りと同じことをしなければならないことに違和感を持ち、「ハミダシモノ」という作品も書いています。自分の中の負のエネルギーを表現し、プラスに変えるというスタンスでした。このように制作をしていた中で、あの東日本大震災が起こりました。

       

      金森朱音 「悲鳴」

      金森朱音 「生死」

      金森朱音作品「3.11悲鳴ー3.11生死」(Photo by Ayumi Yamazaki)

       

      これは、「3.11悲鳴−3.11生死」という作品です。何かに取り憑かれたように、泣きながら書いていました。感情を作品に出さない人もいますが、私は感情をありのままに出します。

       

      震災から時間が経ち、東京では何事も無かったかのように人々が普通の生活を取り戻していました。そんな時に被災地を訪ねてみると、そこは二年経っても、震災の傷跡がそのまま残っていました。それはテレビには映っていないものでした。

      被災された書家の個展も仙台に見に行きました。被災された書家の人たちの中には、今までの作品や、筆や墨など流されてしまった方もいるそうです。被災された書家の作品はやはり重みが違っていました。作品を前に、泣いている方もいました。

      震災などの悲劇を伝えるものは写真や絵画だけなのか、書道でも現実を伝える作品があってもいいのではないか、という思いでした。そうして書いたのが「3.11悲鳴-3.11生死」です。

      金森朱音、「心」

      (Photo by Ayumi Yamazaki)

       

      この「心」は、私にとって分岐点となった作品です。心という字は、優しい雰囲気で書くことが多いかもしれません。しかし、心には怒りや憎しみもあります。凹凸があります。尖っている心もあります。心の二画目の底の部分を丸くしたものも書いてみましたが、それはボツになりました。溢れる感情を表現するためには、この「心」となったのです。

       

      凹凸を表すために、メディウムという画材を使いました。線を立体的にし、塗料の粘度は自分で調整しました。ジャクソン・ポロックのポーリングという技法からインスピレーションを受け、心の点の部分を表現しました。

       

      この「心」は、書でも絵でもどちらでもいいのです。自分の中にあったものをありのままに表現したということが重要なのです。額装にもこだわり、マットは段差をつけ、幅もセンチ単位で考えました。文字の凹凸を見てもらいたかったので、ガラスは入れませんでした。

       

      金森朱音

       

      そして大学を卒業したのですが、いわゆる会社員になる就職は考えませんでした。両親もそれは予想していたようで、私が書道の活動をしていくことを理解してくれました。高校の書道科の教員免許を持っているので、現在は高校で書道科の非常勤講師をしています。非常勤なので時間的には、創作活動をすることができます。

       

      そして結婚、出産も経験し一児の母となったのですが、家族は私の活動を理解し、支えてくれています。出産をしてから書のスタイルが変わってきました。

       

      (後編に続く)

       


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        インタビュー ] 書家「金森朱音」は、一文字の詩人


         

         

        (Photo by Ayumi Yamazaki)

         

        アーティストとしての金森さんを知ってもらうには、まず彼女の作品を一枚見てもらうのが一番だろう。【生】という字を書いているこの作品は、最近の作品だそうだ

         

        生命力に溢れた字である。中央のグルグルと廻ったところは、心臓が鼓動しているようだ。上方に向かって二本の手が挙がっている。頭になる部分と合わせて、生き物のエネルギーが上に向かってまるで、マグマが噴火しているようだ。そして一番下は、どっしりと地に足をつけている。きっと、これが金森朱音さんの【生きる】という感覚なのだろう。

         

        この作品は、「太陽の塔」という岡本太郎のドキュメンタリー映画を見た帰り道、描かずにはいられなくなったそうだ。金森さん曰く、まるで岡本太郎に「お前は、いったい何をやっているのだ?」と叱られたような気持ちだったと話してくれた。 映画館を出てすぐに、感じたもの全てをメモ帳に書き出し、その足で画材屋に向かったという。そしてアトリエに入り、この「生」という字を筆を使わず、手で書いたという。

         

        金森さんは、自分のことを表現者だという。彼女は、自分のことを、書家とか、画家とかいう単純な分類で区切らなくてもいいのではないかと言う。自分の内から迸る感情を表現するのが、自分の役割だと思っていると言う。ただ、一般的な括りでは、彼女は書を持って、自分を表現しているから書家なのだろう。そんな彼女の成長の過程は、8歳の頃から書道教室に通い、大学も東京学芸大学の書道科と、書家として歩んできた道だった。

         

         

         

        次回から二回にわたって、金森さんをインタビューした記事を掲載する。金森さんは、現在27歳。一児の母である。高校で書道の教員をするかたわら、母としては子育てをし、妻としては家事もこなしながら、創作の時間を絞り出している。話をきいていて、彼女には作品を作るエネルギーが溢れているのを感じた。それを読者も感じ取ってくれたらと思う。また、若い女性のアーティストとしての悩み、出産を終えての作風の変化も話していただいた、もりだくさんのインタビューである。

         

        金森朱音、Akane Kanamori

        (インタビュー当日=厚木にて)

         

        JUGEMテーマ:書道

         


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          インタビュー ] 何も見えないところから、見えるものにするのが写真の面白さ-写真家小嶋三樹さんのインタビュー


          今回インタビューさせていただいた小嶋三樹さんは、現在、山梨県富士川町に在住。写真家として36年以上活動されています。

          写真家「小嶋三樹」

           

          私どものブログをいつも読んでくださっているYDさんが、写真を和紙に焼き付けている素晴らしいアーティストがいらっしゃるのですが、と小嶋さんを紹介してくださいました。小嶋さんのテーマは、自然の中の生命を光で表現すること。光を描くには陰を表現することが必要であり、陰を描くには光を表現することが必要だと主張されています。その調和の世界が、独特の小嶋ワールドです。

           

          「小嶋三樹、太素杳冥

          (写真集「太素杳冥」から。光と陰の中の生命感を表現している。)

           

           

          5月中旬の夏かと思うような暑さの中、富士山を望むことができる静かな佇まいの富士川町のご自宅にお伺いさせていただきました。初めてお会いしたのだが、まるで、以前から知り合いだった方と話をしているような雰囲気でした。

           

           

          「どういうきっかけで写真を始められたのでしょうか?」

           

          一番初めは、油絵を描いていました。それから版画に興味を持って、創形美術学校の版画科で2年間学びました。そこでは、様々な版種の技法の中でシルクスクリーンで写真製版も学びました。又、写真の講座もあったのです。実は、版画と写真はよく似ているのです。版画の版にあたるのが、写真のフィルムで、それをもとにしてプリントするわけです。

           

          20歳の時に、ヨーロッパに行って、展覧会や美術館巡りをしていると、写真展を結構やっているのです。その時に、写真っていいなと思いました。日本にいた時には、写真をアートとしては見ていなかったので、衝撃でした。写真も表現の手段になりうるなと。

           

          それで、版画学校を卒業後、写真学校に入り直しました。そこで、二年間、基礎的なことを学びました。卒業後は、プロのところで1年程、助手をやってから、25歳でフリーランスになりました。今は、職業として仕事の写真も撮っていますが、スタートがこのようだったので、お金を稼ぐだけではなくて、表現として写真をやりたいという気持ちが強かったです。

           

           

          「写真家としてやってきた中で、どんなご苦労をされたのか、お聞かせくださいますか?」

           

          経済的には大変なこともありました。しかし、色々な方に恵まれてここまで来られました。25歳でフリーランスですから、もう36年になります。あっというまでした。

           

          苦労というのは、正直に言って、あまり苦労した記憶が無いかな。何度もやり直しをしても、翌日見ると、気に入らなくて、全て、やり直しとか。それで、暗室から出るのが嫌になって、暗室に、寝袋持ち込んで、そこで寝るとか。でも、それは、ものを作る人は、みんな味わっていると思います。それは、苦労とはかんじませんでした。

           

          「小嶋さんの取り組んだ、和紙に写真をプリントするという話をお聞かせください。」

           

          簡単に説明すると、写真を焼き付ける印画紙を、和紙を使って自分で手作りするということです。和紙に、自分で乳剤を塗るのです。大切なのは、和紙を使っても、今までつかってきた市販の印画紙以上の価値を生み出さないといけないということです。又は、全く、別の価値を作りださないといけないということです。そうでなかったら、単に和紙を使ってやりましたという趣味の範囲になってしまいます。そういう風にはしたくなかったです。印画紙になる和紙探し、テスト、そして自分が納得できるトーンを出すのに、5年かかってしまいました。 暗室で薬品の中に和紙を入れて現像処理をした後水洗いすると、手漉き和紙というのはふわーと溶けて散ってしまいます。それ以外でも、乳剤が剥離したり、裏に滲みてしまったりとか、和紙にはつきものの不純物がシミになって出てしまったり、いろいろなトラブルが発生しました。

           

          行きついたのが、越中五箇山の悠久紙です。その五箇山の悠久紙では、実際に蔵にまで入れていただいて見せていただき、どの厚さの紙が良いかを探すなど、一枚一枚手にとって選別させてもらいました。悠久紙の宮本さんとその息子さんには、本当にお世話になりました。私と5年間やる間に、一緒に悩んで追及してくれました。

           

          越中五箇山悠久紙のWebサイトは、こちらから。冬の雪に晒して白くするというこだわりのある和紙です。

          http://www1.tst.ne.jp/yukyushi/

           

           

          それから、裏打ちとか糊のことなどもあります。東京のマスミという表装を扱うお店があるのですが、雑誌の取材で海外から日本の表装文化、技術を学びに来ている方を取材する機会があり、当時本で学ぶだけでは限界があって悩んでいた糊の濃さを目の前で見ることができました。そこでは、表装教室もやっていたので、すぐに入りました。自分でも掛け軸を作るようになりました。表装を習ったので、裏打ちをしたらどういう効果がでるかも分かるようになったのです。伝統的な技術を学べたことは大変プラスになりました。

            

          又、写真は普通、ベニヤのパネルに貼るのですが、ちゃんと袋張りした表装のパネルに貼るという方法には、意味があるのです。和紙は、普通の印画紙のように、光を反射しません。その性質を活かすには、袋張り表装のパネルでなければだめなんです。そういうことも色々と試しながら学んでいきました。

           

          2003年の東京画廊での個展「閑寂幽玄」で、本格的に和紙を使い始めました。先ほどもお話しましたが、ただ和紙を使ってやってありますでは、工芸的な意味合いです。いわゆる、アートのクオリティーではありません。

           

          小嶋三樹、閑寂幽玄

          (2003年個展「閑寂幽玄」東京画廊での展示風景)

           

          手漉き和紙と機械漉き和紙についてですが、機械漉き和紙もどんどん良くなっています。種類も増えました。根本は、手漉き和紙を使うから良い悪いではなく、自分の作品とマッチさせて、手漉き和紙ならではの良さを活かしていけば良いのです。正直なところ、敢えて何を使っているのかなんて書く必要はないと思っています。滲み止め加工をしていない桐生の手漉き和紙を意図的に使ったことがあります。当然のことながら滲みがでるのですが、それが和紙の良さでもあるのです。インクジェットプリンターなどは、如何に写真用紙の白さの上に正確なドットを細かく打ちを出すかを競っていますが、和紙は繊維の間に染み込んで滲んだりします。その特徴を分かった上で、自分でなにを使うかを決めています。

           

          いっぽう、和紙は小さい作品では、ディテールが死んでしまうので向いていません。大きさのマッチングも大切な要素です。

           

          又、写真用紙というのは表面がテカテカしていますが、和紙は光りません。光を吸収するから目に優しいです。そして、和紙は、裏打ちをすると深みが増します。それが、和紙を使うメリットだと思います。

           

          その裏打ちですが、裏打ちするタイミングはいつでも良いと思います。書道も表具屋さんへ持っていって裏打ちします。それと同じです。写真でも同じです。シャドウ部の深みが増します。

           

           

          「小嶋さんの作品について教えてください。モノクロ写真が多いようですが、その意図は?」

           

          内側から湧き出してくる光なんです。色というのは、表面的なものになってしまうのです。きっかけは、太素杳冥の中にある写真を撮影していた時です。日没頃撮っていた時に、自分には光溢れる風景に感じられていたのにはっと気がついて周りを観ると真っ暗だったのです。でも、下は輝いて見えました。それが何でだろうと思ったのが始まりです。陰が極まって、陽が生じるようなイメージです。そこには、色はいりません。観る人が陰影の中にご自分の色を感じてもらえれば良いです。

           

          ​写真家「小嶋三樹」 太素杳冥

          (写真集「太素杳冥」から。光と陰の中の生命感を表現している。陰の部分も一つだけの黒ではない。)

           

          プリントの中の黒ですが、けっしてベタの黒ではありません。存在感がある黒です。版画をやっている時に学んだことですが、真っ黒に潰すのは簡単なことです。しかし、一見、真っ暗に見えても、僅かな陰影の濃淡の差異の中に何かの存在を感じさせるのはとても日本的です。

           

          ​写真家「小嶋三樹」 太素杳冥

          (写真集「太素杳冥」から。光と陰の中の生命感を表現している。陰の部分も一つだけの黒ではない。)

           

          和紙は良いけれども、難しいです。何が難しいかというと、黒の濃度が全然出ないのです。明暗の階調の幅が狭く、それで、普通の階調の再現域の広い洋紙と違った表現をしないといけないからです。私は、調和の世界を気にします。それは、単純に数字化したら、この黒の濃度は出ていないけれど、調和の世界ならその黒の色を感じることはできます。

           

          ​写真家「小嶋三樹」閑寂幽玄@ゆこもり展

          (2016年個展「閑寂幽寂」手仕事扱い処 ゆこもり会場 展示風景)

           

          その生命感をちゃんと描写して、全体的に暗さを表現するには、技術が必要になります。例えば、この滝の写真ですが、普通に撮るだけだったら、決してこうはなりません。暗いところを出したら、滝が白く飛んでしまうし、滝を出したら、まわりは真っ黒に潰れます。

           

          ​​写真家「小嶋三樹」 閑寂幽玄

          (2012年「閑寂幽玄」、滝の写真は写真家小嶋三樹のSignatureWorksのようだ。)

           

          「ネガは楽譜であり、プリントは演奏である。」 アンセル・アダムス(アメリカの写真家。1902〜1984)

           

          ただ、写真を撮ってプリントしただけでは、譜面どおりに演奏しただけということです。でも、指揮者が違ったり、オーケストラが違ったりすると、同じ楽譜なのに、違った感動が生まれます。また、同じ指揮者が30代の頃に演奏したのと、60代で演奏すれば、生涯をとおして違ったものが生まれ表現されます。写真でも、10年、20年と経ってから、プリントしなおすと、新しい発見と表現があります。写真というのはそういうものだと考えます。

            

          写真を撮って写真屋さんにだして終わりでなく、撮ったところは、まだ過程の半分の一歩手前なんです。自分のイメージにそこから近づける作業が必要です。

           

           パソコンの画面上だけではなく、プリントする場合には自分が良いと思った和紙であったり、版画の紙であったり、そして、表装などの見え方まで、写真をするなら考えるべきだと思っています。私は、紙の質感を見せたいので、展示会では、額装の時でも、ガラスを入れません。

           

          (2016年個展「閑寂幽寂」手仕事扱い処 ゆこもり会場 展示風景)

           

          作品一つ一つに題名はつけません。見ていただく方の感性で対峙して見ていただくのに、題は必要ないと思っています。地名ぐらいは表示する場合もありますが、それも、作品を観てもらうには、あまり重要ではないと考えています。言葉で表現できないものをやっているのに、言葉でどこまで説明する必要があるのかということです。

           

           

          「小嶋さんご自身が持っていらっしゃるテーマは?」

           

          自然の中の命の光です。やってきて気づいたのはそこです。一つの光として表現する。Photographyとは、本来、光で描くという意味です。光は大事です。単に明暗の話ではなく、光を描くには、影が必要で、逆に陰を描こうとすると光が必要になります。両方の調和の世界です。

           

          このニュージーランドでの写真は、敢えて、青色を出しました。ベースはモノクロです。父がちょうど亡くなった時だったので、青を使ったのは影響があったのかもしれません。

           

          ​​写真家「小嶋三樹」New Zealand

          ​​写真家「小嶋三樹」New Zealand(ひかりといのちとの題名がついているのは小嶋さんの作品では珍しい。ニュージーランドで撮影)

           

          このダイヤモンド富士ですが、普通に撮ると逆光ですので、山肌がベタで真っ黒になるのです。シルエットでよければそれで良いのですが、山や森を出すには、技術的な裏付けが必要です。残念ながら、写真では実際の明暗の差を再現できません。ラティチュードと言いますが、記録し再現できる階調の幅に限りがあります。それが前提ですので、自分の表現したいものに近づける調整が必要です。暗い所のディティールを描写するには、明るく撮れば良いのですが、そうすると明るい所は真っ白になってしまいます。明るい所を大切にして暗くして撮れば今度はシャドウ部が真っ黒になってしまう。そこで、暗室で光を多くあてたり少なくしたりするプリント調整をします。

           

          小嶋三樹、ダイヤモンド富士

          (朔旦冬至ダイヤモンド富士)

           

          「100人のうち、99人に伝わらなくても、1人感動してくれる人がいたらいいのです。」

           

          自分が納得した作品を出すことが大切なんです。よく、写真コンテストなどで受賞を狙って、あの審査員は、祭りが好きだとか、風景が好きだとかと、コンテストの審査員に合わせた写真を撮って出品している人がおられます。そうなると、何のために写真を撮っているのかが、分からなくなってしまいます。美術や写真でも、コンクールの審査員は、自分の生徒が出品していれば、落とせないものです。又、持ち回りで賞を取らせたりもします。

           

          やはり、芸術関係には、そういうところがあります。良い面もありますが、弊害もあるわけです。それで、先生に合わせて作品を作って、仮に、金賞を取れたとしても、嬉しいのでしょうか。ですから、結果に一喜一憂するのではなく、自分の撮りたいものを追及して、1人でもいいから感動してくれるような作品ができれば良いのだと思います。

           

          自分で被写体を探すことをしないで、SNSやコンテスト雑誌で紹介されて有名になった撮影ポイントで、みんなが同じ方向にズラリ並んでカメラを向けていますね。異様な光景です。そういう場所で、みんなとは違う方向だったり、後ろを向いて撮っている人がいたら、その人は本物だと思います。

           

          ​小嶋三樹、太素杳冥

          (写真集「太素杳冥」から。光と陰の中の生命感を表現している。陰の部分も一つだけの黒ではない。)

           

          デジタルでは、フォトショップなど、何種類か使います。使い方によっては、合成など邪道な面があることは確かです。ただ、そうではない写真の質を高める調整のための使い方をすれば良いのです。撮ったまま何もしなくても良いという考えは、暗室でプリントをやったことのない人に見受けられますが、写真が自然界の明暗差をすべて記録できない事を知っていたらあり得ない考えだと思います。

           

          色についてですが、JPEGで表現されているのはカメラメーカーの考えている色です。例えば青空といっても五月晴れも秋晴れも同じ青ではなく、ひとりひとりが感じた色で表現すれば良いのです。写真をやるのだったら、そこは自分でやるべきです。無条件に色を使わされているのです。フィルターや風景の濃度などカメラメーカーに決められています。

           

          デジタルでの加工に限らず、「私には、こういう風に見えた、感じた」事を人に伝えるために表現するのだということです。写真の面白いところは、もちろん表面的に写すところもありますが、写真には、見えないモノが写るのだと思います。そこが面白いのです。何も見えないところから、見えるものにするところに作者がいるのです。そして、見るかたが自由に作品を観て感じることがあって初めて作品が成立するのだと思います。

           

          ​小嶋三樹、太素杳冥

          (写真集「太素杳冥」から。)

           

          最後になりますが、写真を志す人には、基本をしっかりと学んでほしいです。きれいに撮る目先のテクニックだけでなく、露出などの「写す基本とプリント表現する基本」は身につけて欲しいです。二度とない人生の中で、写真と出会い、その人にしかできない表現を目指してもらいたいです。その過程の中で、「自分はこうしたいのだけれど、なぜ、できないのだ?」、かを考え、できるようにする方法を考える、そのプロセスが大切です。人と比べて、自分が一番か二番という相対評価ではなく、自分が納得できるものを追及するという絶対評価を追及していると、自然と、他の人も分かってくれます。

           

           

          「インタビューアーの独り言」

           

          小嶋さんの写真に対する真摯な思いを、読者の皆様に伝えることはできただろうか? 写真というものに対する知識が殆ど無い私には、技術的な話は、パソコンを初めて起動する小学生並みの理解力しかない。ただ、小嶋さんは、話を初めてすぐにそれを察してくれたようだ。噛み砕いて話していただいたが、それでもハードルは高かった。

           

          しかし、ここに紹介させていただいた写真を見れば、きっと、読者も感じてくれるものがあるのではないだろうか。筆者には、小嶋さんの写真を見ていると、太古の昔から止まっていた時間が、ちょうど、水の雫が垂れる音で動き出すような厳粛なものを感じる。高等生物が地球に出現する前の生命の始まりの音、それが聞こえてくる。そんな風に感じさせる写真、いや芸術に触れることが、今まであっただろうか?

           

          小嶋さんの芸術家としての姿勢は、アーティストを目指す人には、きっと一つの指針となるのではないだろうか。簡単に、苦労は無かったと言い切った小嶋さんだが、五年の間、和紙を印画紙にするために、指針無いゼロから作り上げていった話は、自分にはとてもできないと思う。物を創るということ、オリジナリティを創り出すはこういう事なんだろうか? その間には、焦燥感や、絶望感などもあったろう。しかし、今の温和な小嶋さんの顔からは、とても想像できない。きっと、その過程での苦しさは、小嶋さんご本人とご家族だけが知っているのだろう。

           

          できれば、この記事は和紙に関する仕事をしている人には、できるだけ届けたい。これは、和紙の新しい使い方を実際に追及した写真家の話である。こういう新しい需要が、他にもあるかもしれない。又、海外の需要家に提案できるかもしれない。産業の新しい方向や需要の開拓というのは、どこにあるか分からない。そういう意味で、越中五箇山の悠久紙の方の取り組みには敬意を表する。

           

          インタビューの初めに、小嶋さんのお父上は作家の「小島直記先生」の話が出た。福岡県の八女市の方で、1919年に生まれた方だそうだ。私事になるが、実をいうと、筆者の父も1919年生まれ。さらに、この小島直記先生は、終戦時は、海軍主計大尉だったそうだ。私の父も、終戦時に海軍主計大尉だった。きっと、私たちの父親は、同じところで学び、同じところで働き、話を交わしたこともあっただろう。それから70年以上たった2018年に、その子供たち二人が、話を交わす機会に恵まれたのだ。不思議な因縁である。

            

          なお、小嶋さんのHPとFBはこちらからどうぞ。

          http://www.miki-kojima.com/

           

          http://www.facebook.com/miki.kojima.73

           

           


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            インタビュー ] 切り絵の描き方を久保修さんに聞きました―第三篇


            JUGEMテーマ:アート、デザイン、日々 / Art, Design, LIFE

             

            切り絵の作り方の手順

             

            一つの切り絵の作品を作るには、最初にするのはスケッチを描くことです。

            久保修さん、スケッチ

             


            その後、下絵(白と黒の世界を作る)を、描きます。

            久保修さん、下絵作成

             

            それから、白のところを切り取っていくのです。下絵を和紙に載せて、テープで固定して、下絵と和紙を、二枚一緒に切っていきます。手順としては、白の面積の細かいところから切ります。この絵の場合、いがのギザギザのところからです。

             

            久保修さん、切り絵の描き方

            これをこのままで置く場合と、黒く染めて、色を付ける作業をする2つに分かれます。切ったあとには、色をつけますが、それが、一番大変です。真っ白い和紙に、ブラシや刷毛で染めていくことになります。

             

             

             

            (久保さんの使っておられる道具類)

             

            小さいサイズのものは、2、3週間でできるけれど、大きいサイズのものは(例えばふすま一枚のサイズ)1カ月、2カ月とかかります。中には、1年かけて作るのもあります。工夫するのは、説明的なものにならないようにすることです。技術を見せる部分と、出来上がったときに芸術として主張しなければいけない両方を満たさないといけません。

             

             

            和紙については、こだわりを持っています。1枚の和紙をナイフで、繊細に切り抜いて仕上げます。作品の題材によっては、薄い和紙を幾重にも重ねて奥行や立体感を出していきます。そして、自分のオリジナルの鮮やかな色彩で、質感も表現していくのです。

             

            あと、私は、下絵を本にして出しています。その下絵を使っていただければと思います。下絵を作るのは、大変です。しかし、本当に大切なことですので、私の下絵を使うことによって、皆さんの助けになればと思います。(アマゾンで久保修と検索すると、久保さんの著作が10数冊出てきます(筆者)

             

             

            ”インタビューアの独り言

             切り絵画家久保修の成功から学ぶこと。”

             

            久保さんは、非常に穏やかな雰囲気の人だった。しゃべり方もソフト。南向きの明るいアトリエでのインタビューは、実に、心地良いものだった。福島での展覧会の直前にもかかわらず、ゆっくりと時間を取っていただいたのは嬉しかった。今回、普段の編集後記と違って、何が久保さんを成功させたのかを考えてみたい。それは、アートを目指す若者だけではなく、全ての人生の挑戦者に参考になるのではないだろうかと思う。

             

            キーワードは、「継続」、「海外」、「ハングリー精神」、そして「訪れたチャンスをものにする」。

             

            実は、インタビューの最初、未だ本題に入る前に、久保さんは、この47年間、紙を切り続けてきましたと、自己紹介をされた。久保さんが、社会に出始めたのは、バブルの前。世間がバブルに踊らせられていた時も、金融危機の時も、リーマンショックの時も、久保さんは紙を切り続けていた。決して、詳しくは語らなかったが、大変なこと、嫌なこともあったことだろう。今ある久保修という切り絵画家は、継続してきた延長線上にあり、今後も、きっとそうなのだと思う。まさに、「継続は力なり」ということを。もちろん、画家としての、才能は必要なのだろう。ただ、継続するということ自体も才能の一つではないだろうか。

             

            「海外に出て異文化に触れたらどうだ。」 若い頃の久保さんに、作家の小松左京さんはそうアドバイスをした。そして、久保さんは、1年間、スペインに滞在して、そこで、新しい境地を開いた。久保さん曰く、「それまでの自分は、“はみ出し”ができなかった。スケッチブックの枠の中でしか描けなかった。」 「スペインの芸術を志す人たちは、自由にやっていた。」 その1年間のスペイン滞在で一番感激したのは、色々なものが、吸い取り紙のように、身体に吸収されたことだという。

             

            その久保さんは、この10年、日本の国内だけではなく、海外に目を向けている。切り絵の新しい理解者を増やそうとして、伝道師のように海外に足を向けている。

             

            今の、日本人、特に伝統産業や古典芸能にたずさわる人たちには、海外の需要を取り込むのだという気概が、もっと必要なのではないだろうか。例えば、手漉き和紙の生産者の方々は、国内だけでなく、海外に目を向ける必要があると思う。

             

            切り絵画家の世界には、日本の古典的な芸術界に存在している家元制度などがないから、そういったものには、頼れない。それは、果たしてマイナスのことだったのだろうか?久保さんが、「弟子を取らない」と、いうことは、弟子やその弟子からお金も取れないし、作品を売りつけることもできない。まさに、裸一貫で、世の中を渡ってきている。船底一枚下は地獄というわけだ。そういうハングリー精神が、成長の根源にあったのではないだろうか。

             

            自分を取り立ててくれる人がいたら、相手の懐に飛び込むことの大切さを痛感する。久保さんの場合は、それが、たまたま、小松左京さんだった。小松さんという理解者を得たことは、非常に幸運だったと、述べている。読者の中には、「普通の人には、そんな僥倖は、滅多に訪れるものではない」と、反論されるかもしれない。しかし、仮に貴方に、そういうチャンスが巡ってきたときに、自分のものにすることができるだろうか?久保さんを引き立てた小松さんは、きっと、若い頃の久保さんの持っている何かに、惚れたのではないだろうか。そういうものを持っていたのではないだろうか。

             

            今回のインタビューでは、ある程度の年齢になったら、自分が生涯追及するようなテーマを持つことの大切さを、教えてもらったような気がする。久保さんのテーマは、「紙のジャポニスム」が、阪神淡路大震災がきっかけだった。久保さんはたまたま40歳代に見つけたようだが、人生百年の時代だから、40歳でなくても良い。60歳、70歳、80歳でも、いつでも良いのではないだろうか。

             

            学ぶべきことは、きっと、他にもいろいろあるだろうし、久保さんだけが知っている何かもあるのかもしれない。芸術家を目指す人だけではなく、今、読者が戦っているそれぞれの分野でも、久保さんの生き方が何かのヒントになればと思う。切り絵画家「久保修」

             

             


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              インタビュー ] 第二篇 久保修さんとのインタビュー 「切り絵という手法で日本を描いていく」


               

               

              ”阪神淡路大震災で被災―切り絵という手法で、日本を描いていこうと、決意しました。”

               

              阪神大震災で被災しました。一瞬のうちに長く続いたものが消えるということを体験したのです。日本には、数々の自然災害があります。 自然災害が起こると、廃材の山ができるんです。神戸の時、若い夫婦が、年代物だけれどまだ綺麗な輪島塗の箱を捨てているのを目撃。なぜ、捨てるのか聞いてみると、「この機会に、全てを新しくしたい。」と、そう言っていました。それを見ていて感じたことは、復興は大事だけれど、このままでは、日本の大事なものが無くなっていく。とにかく、これはまずいと感じました。

              その時です。自分は切り絵という手法で、日本を描いていこうと、決意したのです。日本の原風景的なものは、消失しかけている。もちろん、まだまだ存在しているけれど、田舎の風景の中に都会があったりして、消失している日本があるのも事実。又、日本には、四季があって、長いこと続けていた生活は、その四季の変化に基づいているんです。

              久保修 町家の四季

              (作品:町家の四季 久保さんの代表作。2009年の制作。左から右に向かって四季の移り変わりが一枚の絵の中に描かれている。)

               

              神戸の地震の後、日本全国を旅しました。47都道府県全部を回りました。飲みに行くと楽しかったけれど、良い作品をつくることが大切と、飲みにいくことをやめて、作品作りに没頭しました。そして、テーマは「紙のジャポニスム」と決めました。日本には、素晴らしい四季の変化があります。それは、四季の風物詩だったり、旬の食材であったり。生命力にあふれた瞬間を切り取って作品に仕上げています。

               

              久保さんが、今回の福島での展覧会会場での解説で、紙のジャポニスムについて、「日本を見つける旅、日本に出会う旅、日本を感じる旅となっていった。」と、説明している。

               

              久保修 朝靄

              (作品:朝靄)

                

              例えば、季節の代わり目。日本の春の色は、単純に緑一色ではないのです。多様な緑です。それは、グリーンが、濃かったり、パステルだったり、ハーフトーンだったり。そんな色の変わり方を出したい。そう思って、絵の具を混ぜていきました。葉っぱを一枚一枚、違ったグリーンで色付けします。これは、何十年もかかったけれど、これからも、それを追及していきたいです。

               

              (左から秋の七草、都の桜、朝顔、雪中椿)

               

              嬉しかったのは、ふるさと切手「隅田川花火、東京都」が1999年に採用されたことです。とにかく、自分の個展の案内状を、自分のデザインした切手で出したいと、強く願いました。思い続けていると、願いは叶うのかなと思います。その後、切手では、2009年に「深川八幡祭」と2012年に「大阪天神祭」とデザインが採用されました。 

               

              久保修デザイン切手

              1999年に発行されたふるさと切手を最初に、久保さんのデザインは、その後2回採用されている。:隅田川 花火、東京都)

               

              切手のデザインが採用された頃に、東京に進出しました。それから、東京と大阪を行ったり来たりする生活になりましたが、悔しかったのは、東京で紹介される時に、「関西では有名な久保君」と言われていたことです。

                

              海外に出るようになったのは、NYでの2008年の、「THE NIPPON CLUB」展覧会がきっかけです。2010年には、NYを拠点に文化庁文化交流使となって、3カ月で30カ所廻りました。小学校、中学校、高校、そして大学でもワークショップを開催しました。フィラデルフィアのドレクセル大学に招聘されて、学生に教えました。ドレクセル大学には、その時から1年おきに行っています。

               

              ヨーロッパでは、スペイン・ポルトガル・ウクライナ・ロシアなど。アジアでは、マレーシア・フィリピン・シンガポール・中国など。普段、なかなか行けないような、イラン・トルコ・ジョージア・キューバなどでも、展覧会やワークショップなどの活動を行ってきています。ロシアでは、3回目の訪問の時に、モスクワの東洋美術館という国立美術館が展覧会を開いてくれました。国立の美術館が生きているアーティストの展覧会を開くというのは、稀なことです。

               

              私の場合、小松左京先生に応援して頂いたことは、本当に大きかったです。その後も、色んな人が助けてくれました。チャンスをくれないで、口で、言うだけの方もいます。チャンスをくださいと、若い時からお願いしています。批評するのは簡単だけれど、言われる方は大変。批評するからには、本人も覚悟を決めないといけない。そういうことで苦しんだことはあります。

               

              日本の古典芸能などでは、宗家とか流派の家元制度などのピラミッドがあります。しかし、切り絵をはじめ、いくつかの日本の芸術にはそういう階級制度みたいなものがありません。今のところ、私の場合、弟子は取りません。自分の実力だけで勝負していくものだと思います。 国も、本当は、もっと芸術部門にお金を使って欲しいです。ほんの少し、芸術に振り替えてくれたら、もっともっとやれるのです。そういう点で、外務省の文化交流使の制度で、NYに2009年に行くことができたのは、大きかったです。若い人たちは、もっと海外に出ていくべきだと思います。

               

               

              ”「切り絵で描くジャポニスム」”

               

              今回、福島民報社という新聞社の創刊125周年記念事業で、展覧会を4月1日から5月6日まで行います。会場は、とうほう・みんなの文化センター(福島県文化センター)です。スペシャルイベントも多く、4月21日は、奥会津郷土写真家の星賢孝氏が、そして4月22日は、ピアニストの平井元喜氏がゲストとして来場します。出品数も193と多いです。この出品数は、大変な数です。自分も本当に力を入れています。

               

              (福島民報社創刊125周年記念事業のパンフレットの裏面)

               

              斉藤清という福島の木版画家の作品が好きでした。特に、会津は好きで若い時から、福島に行く機会が多かったです。私は、生まれが山口県(長州)ですが、その私が、会津を好きというのもおかしいですね。

               

              3・11以降も、何度も訪れています。風評被害もあり、子供たちは不安定でした。仮設住宅が出来て少し落ち着いたこともあり、何かできないかと思っていた時に、新聞社や市のバックアップもあって、切り絵のワークショップを開いたのです。被災者の方々も、最初は、切り絵のような細かいことはできないと言って、あまり、乗り気ではなかったけれど、だんだんと切り絵に集中するようになってきました。

               

              福島県には、思い入れがたくさんあります。日本のそれ以外に好きな所を5カ所ですか? やはり、自分の出身の山口県の美祢市、兵庫県豊岡市、岡山県全域、北海道の雪景色、そして九州ですね。

               

              第三篇は切り絵の描き方です。5月7日にリリースされます。


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              インタビュー ] 切り絵画家「久保修」さんに話を聞きにいきました―第一篇


              桜の花が、例年より、一週間ほど早く咲いた2018年。その桜が満開で咲き誇っている今年の3月、切り絵画家の「久保修」さんとのインタビューをする機会を得た。福島での展覧会直前にもかかわらず、お時間をとってくださった。このインタビューは、もう何年も会っていなかった、筆者の中学時代、高校時代のクラスメートが、和紙のことをやっているんだったら、この人と話してみたらとメールをくれたのがきっかけだった。縁は異なもの不思議なものを、地で行くような事の運びだった。

              切り絵画家「久保修」

              (久保修さんとのインタビュー2018327)

               

              最初に、久保修さんをご存知ない方に、簡単にご紹介させていただきたい。日本の数ある切り絵画家の中でも、久保さんは、日本国内はもとより、全世界で認められている唯一の画家ではないだろうか。国内では、ほぼ毎年日本各地で個展・展覧会を開いておられる。そして、久保さんの切り絵を使用した商品も、サントリーをはじめ数多くあり、さらに、ふるさと記念切手も1999年、2009年、2012年と発行されている。年賀状のデザインにも2回採用されている。

               


              久保修 サントリービール福島の春

              (サントリービール ザ・プレミアム・モルツの缶のデザインは2015年から毎年採用されている。今年、2018年は、福島の春というエリア限定)

               

              海外での活動は、ざっと挙げただけでも、アメリカでは40カ所でワークショップや大学でのレクチャーをされている。さらに、スペイン、ポルトガル、ロシア、イラン、キューバ、トルコ、ジョージア、アジアでも、フィリピン、マレーシア、シンガポール、中国、シンガポールと、それこそ「地球儀を俯瞰する」活動をされている。久保さんの外交は、日本の知恵と美、そして芸術を発信しているのだ。なお、久保さんは、今年海外では、インドネシアでも9月に活動を予定しているそうだ。

               

               

              そして、今年、2018年は、4月1日から5月6日まで福島市で「切り絵で描くジャポニスム」を福島民報社創刊125周年記念事業として展覧会を開かれている。 出品される作品数も、1988年から2018年までの30年間の集大成で190を超えるそうで、相当、気合が入っている。制作時間は短いものでも3週間ぐらいかかるとのことで、大きな作品では、年単位かかるという。それだからこそ、190の出品ということの重さが分かるのである。ゴールデンウィークには、是非、福島を行ってご覧になっては如何。

               

              久保修 ちらし

              (福島民報社創刊125周年記念事業)

               

              今回は、現在にいたる久保さんの活動の軌跡と、久保さんが進めている「紙のジャポニスム」についての話、切り絵の作り方などを話していただいた。

              久保修 因幡の白兎

              (因幡の白兎: 久保さんは、寝る前に必ず枕元に、ペンとスケッチブックを置いているという。夢でみた物語や、風景などを忘れない間に残しておくためだと、「切り絵で描くジャポニスム」という本の中に書かれている。この波の上を走っている兎の夢を見たそうだ。)

               

              ”「久保さんが切り絵にたずさわるようになったのは、どういうきっかけだったのでしょうか?」”

               

              私の実家は、山口県の美祢(みね)市で建築事務所をやっていました。私は長男です。1970年に、大阪の大学に行き始めました。当時は、学生運動の残りが感じられる時期でした。建築では、パースという完成予想図を作ります。 石垣や木などを、紙を切ることでやってみました。その時に、紙をナイフで切るシャープな線ができるのが面白くなったのです。最初は、植物、果物のシルエットを紙で切っていたのです。

               

              その後、京都で、友禅の型染を見て、魅せられました。とにかく、紙で表現するのが面白い。そんなことをしているうちに、20歳になったら大学をやめていました。親には、勘当されましたが、母親は、しばらく仕送りをしてくれていました。助かりました。

               

              ”そこからどういう風に、現在の切り絵画家に進まれたのでしょうか?”

               

              27歳の時に、作家の小松左京さんに出会いました。 「大阪を考える」というシンポジウムがあって、大阪を語る会に、たまたま欠員があったので出席することになりました。行ってみると、周りは、年配の文化人ばかりでした。その時、小松先生が「見かけない顔だけど何してるの?」「どんな作品? 一度、事務所に持っておいで。」と言ってくれたんです。

               

              それから3カ月後に、作品を持っていきました。小松先生は、「自分が想像していたのと違う。一枚の絵にした方がいいじゃないか。」そう仰って、持って行った絵を借りてくれました。それから、時々、電話でコンタクトしていたら、ある時、パーティーで人を紹介してあげるからおいでよということで、大阪のプラザホテルの27階にあった小松先生の事務所に行くことになりました。そのパーティーが始まりで、東京でも、色々な人を紹介してくれました。

               

              更に、小松左京事務所がスポンサーになって、2日間の個展を開くことになりました。それがきっかけで、関西財界の人が支援してくれるようになりました。その次は、東京で開くことになりました。ベルビー赤坂の一周年記念で個展。その時、岡本太郎さんが小松左京さんと一緒に会場に来られ、「つまらないな。君の作品には、何かを壊そうという意欲がないよ。」と突き放されました。当時、誰にも負けないくらい細かく切ることはできたけれど、「君は、本当に、これが芸術だと思っているのか?」「これは、工芸部門だ。芸術じゃない。」本当に、ショックでしたね。

               

              その年、大阪で個展を開きました。毎日新聞の学芸部の記者が、私の取り組みを面白いと言ってくれたんです。その会場で、須田剋太さんという司馬遼太郎先生の挿絵を描いていた人に初めてお会いしました。その人が、初日のレセプションで、いい気になっていた私に、「久保君、君の絵は俗悪だね。」「君の絵は説明的だけど、絵画というのとは表現が違う。」

              岡本太郎先生といい、須田剋太さんといい、強烈な批評でした。しかし、その須田さんも、個展で売れている絵の前は通り過ぎて、何も言わずに、「世界に久保君を認めてくれた人がいるんだ、だから、この絵については、僕は何も言うことはない。」「絵画を、もっと勉強したらどうだ。今のままでは、技術ばっかりに走って表現力がなくなる。」

               

              悩んだ結果、小松左京先生に相談しました。すると、小松先生にも、「絵から伝わってくるものがない。このままでは、映画村のセットになってしまう。」「それより、ここで海外に出て、異文化に触れたらどうだ。行ってみたい国はないのか?」 当時、ピカソが好きだったので、スペインに行きたいと答えました。ただ、渡航費がない、言葉もしゃべれない。それから数日して、小松左京事務所に呼ばれました。すると、そこに司馬遼太郎先生がいて、「君は縄文時代の顔をしている。」 

               

              岡本太郎さんには、「つまらない。」須田剋太さんには、「俗悪」と言われ、小松先生には、「映画村のセット」と言われたり、そして、司馬遼太郎さんは「縄文時代の顔」と言われて、ちょっと、むっとしていたら、「日本の物づくりの原点は縄文時代にある。だから、誉め言葉で言ったんだよ。」 

               

               

              ”スペインに行ったことが転機となりました。”

               

              そんなこんな、話しているうちに、小松左京先生が、関西の作家と財界の人たちでスポンサーをしてやるから、スペインに行ってこいということになったのです。そして、一年間の渡航費と滞在費を出してくれました。33歳の時です。これが、転機となりました。

               

              スペインは、石の文化。そして、食べ物が違う。スペインでは、歴史に触れ、宗教絵画を鑑賞することができました。それは、「光と影」で、ちょっと、切り絵の世界に似ていると思いました。司馬先生が、「街道を行く」を執筆された時に、スペインでの案内役をされた山岡清さんという方がおられるのですが、その人が私のスペインでの身元引受役をしてくれました。その山岡さんは、私に、「スーパーマーケットには行くな。言葉が覚えられないから、市場に行け。」こういう、アドバイスもしてくれました。

               

              スペインでは、大陸、大地の広さ、見るもの全てが自分の五感に吸い取り紙のように入ってきました。それが一番感激したことです。スペインでは、他の画家は、みんな自由にやっていました。それまでの私は、建築の勉強をしたせいか、はみ出しができない。スケッチブックの枠から離れられなかったんです。

               久保修 トレドの街並み

              (作品:トレドの街並み)

               

              切り絵で、紙を切るというベースは変わらなかったけれど、それに塗る色を、自分で作っていくことにしました。これが、のちに自分を助けてくれました。画材に、布を使ったり、絵具に砂を混ぜたり、そういったものと切り絵をコラボさせました。自分は、それを混合技法、Mixed Mediaと名付けました。

              久保修 スペインの赤い土

              (作品:スペインの赤い土)

               

              そんなことをしているうちに、1年の期限はあっという間にきました。帰国したら、周りには、「スペインかぶれしたな。」「切り絵じゃなくなったな。」と、色々な批判を言う人がいましたが、気にしなかったです。そのMixed Mediaを追及していたら、某百貨店のバイヤーが、「久保修Mixed Media」という展覧会を開いてくれました。

               

               

              第二篇に続く(5月4日にリリースされます。)


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                インタビュー ] 山井綱雄師のインタビューの記事を書いての感想。


                今回の「金春流シテ方 山井綱雄師」のインタビューの4回シリーズは、大変ご好評をいただいております。

                 

                「面白い記事をありがとう」というコメントがFBでも寄せられております。

                又、これを機会に、能楽を見に行くというコメントを寄せてくださった方もおられます。

                 

                能の羽衣

                 

                 

                確かに、第一篇で話してくださった「能楽はマインドフルネス」という視点は、持っていませんでした。目から鱗でした。

                又、第三篇で取り上げた、山井さんが一番感動した、金春流79世宗家金春信高先生の渾身を振り絞っての「関寺小町」の話は、鬼気迫るものがあります。倒れても倒れても舞おうとし続ける中、後ろの地謡の方はその非常事態にもかかわらず、謡い続ける。そんな普通には、聞く事ができないエピソードを語って下さった山井さんには感謝感謝です。

                 

                第四篇では、「ただ古い物を守っていくだけではダメだと思います。古きを訪ねて新しきを知る。まさに温故知新の精神が必要だと思います。」と、語られた山井さんの熱気を、このインタビュー記事が読者の方に伝えられたかと心配になります。

                 

                このブログは、「和紙はお好き?」という和紙のネットショップのブログですが、和紙だけにはこだわらずに、日本の和の芸術、様式、古典芸能など、又、和にもこだわらずに、色々とジャンルを広げて、「いかにして、昔からあるものを後世に伝えていくか?」という視点で今後も取り組んでまいります。その中で、違った分野で活躍されている方の取り組み方が、他のみなさんの一助になればと思います。

                 

                山井さんには、二回もインタビューのお時間を取っていただいただけでなく、公演でお忙しい中での記事のチェックなど、本当にありがとうございました。今後のご活躍を祈念いたします。最後になりますが、今回、山井さんを私どもに紹介していただいた御手洗さんには、お礼の言葉もありません。今後とも、宜しくお願いいたします。

                 

                 

                 

                 


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                  インタビュー ] 能楽をどうやって後世に伝えるかー山井綱雄師の挑戦は2018年も続く


                  JUGEMテーマ:アート、デザイン、日々 / Art, Design, LIFE

                   

                  第四篇では、能楽の将来について、山井さんの持っている危惧とそれに対処して行動しているこの二年間を、熱く、語ってもらいました。

                   

                   

                  “能楽は、博物館の陳列物になってはいけない。能とは何か、何を伝えていくかを常に考えています。”

                   

                   

                  日本に住む日本人は、日本の伝統文化に、無頓着。そのことを海外に住んでいる日本人から指摘されました。よく聞く話で、日本に住む日本人は、海外に出て初めて、外国の友人知人から尋ねられ、答えられない自分が自国の文化を知らなさすぎるということを痛切に感じるといいます。今の若い人に限らず、茶道、書道、武道、能や狂言など、あまり知らない人が多いのは事実です。

                   

                  その理由の一つは、70年前の先の大戦の後、日本文化を『無菌殺菌』にして始めなければならなかったことがあると思います。その時、戦前からあった改めなければならないものを捨てるのだけでなく、日本が古来より伝えてきた、良かったことまで捨ててしまったのだと思います。といいますか、そうしないと、再出発出来ない時代だったのだと思うのです。あの時代から今日まで、日本人の心にぽっかり穴が空いてしまっているのです。この21世紀は、日本人が忘れてきたものに気づかなくてはならない時代だと、わたしは思います。

                   

                  そういう意味で、2020年東京オリンピックは大きな意味があると思います。しかしそれで終わりにしてはいけないのです。そこが始まりだと思った方が良いのだと思います。 「日本人が忘れかけている大切な何かを思い出す」、2020年のオリンピックをきっかけに、それに気がつかなければならない時だと思います。100年後・・・22世紀の日本人が21世紀を振り返ったとき、2020年の東京オリンピックを契機にして日本は良い方向に変わったのだ、という風に言ってもらえるような日本にしなければならないと思います。

                   

                   

                   

                  しかし、ただ古い物を守っていくだけではダメだと思います。古きを訪ねて新しきを知る。まさに温故知新の精神が必要だと思います。ある方は、「伝承」とは、前からのものをそのまま伝えていくもので、一方、「伝統」とは、新しい解釈を入れて時代に合わせて作っていくものと言っていまして。正に、生きたものなのです。

                  (能とオペラを協演するという形で2017年にカナダのバンクーバーで公演。古いものを守っていくだけではダメ。山井さんの新しいチャレンジは成功している。)

                   

                  私のやっている能楽とは、偉大な金春流の先人たちが作ってきたもの、1400年もの間、苦しく辛い時代も乗り越えてきた大切な貴重な文化財産です。そこには、たくさんのヒントが詰まっています。これを現代に生かしていくことです。能は素晴らしいだけではダメ。能楽は、『博物館の陳列物』になってはいけないのです。能とは何か?何を伝えていくべきか?を常に考えています。今、生きていてここにあるものを伝えていく。それはいったい、何なのか。それを、突っ込んで紹介していく。今の時代に伝統文化を背負っている人間は、全てのジャンルを問わずそれを考えていかなければいけないのです。昔だけのものを守っているのでは、ダメです。それでは、どうしたら良いか。それが難しい。簡単に出る答えなどありません。どうすれば良いのかを、いつも自問自答し、もがいています。

                   

                  ある企業の社長さんが、「日本は中国にも韓国にもインドにも経済的に追い抜かれて、日本なんてもうダメだし落ち目だし、日本は終わりですね」と言われました。しかし、私は決してそうは思いません。高度経済成長の時のような爆発的なことはないかもしれませんが、日本人、日本という国が持っているポテンシャルがあります。アメリカとの貿易摩擦の時に、日本の製品がなぜあんなに売れたかというと、日本人が作り出すものは違うからです。世界の中で品質が良いなど、車や電化製品にしても、日本人は手先が器用で、個人主義ではなく集団主義を大事にし、産み出された日本製品は高く海外で評価されています。働き蟻などと表現されますが、あの時の日本人の精神というのは、ずっとそうだったのだと思います。日本人はずっとそういう民族なのだと思うのです。とても繊細な心を持ち手先も器用です。能楽はそういった日本人の特性があったからこそ、奇跡的に伝来してこられました。その日本の素晴らしさというのが凝縮されています。そういうことが今はややお囃子ろ骨抜きにされてしまっています。

                   

                  金春流が未来につながっていくために何が必要なのか、そこが私の目的の第一です。且つ今の時代を見て、世界の情勢を見た場合、日本人が古来からもっていた心というものが世界の人々に「ああそうか、そういう考えがあるのだ」と知らしめることの出来る、大事な時期だと思います。個人主義やある国の大統領のように自国ファーストと言って自分の国だけ良ければいい、ということではなく、「共存共栄していくのだ」という発想です。

                   

                  西洋文化や、所謂キリスト教的な発想にはこの現代にひとつの行き詰まりがある、と私は思っています。西洋文化やキリスト教を否定している訳ではありせん。西洋には善と悪が明確にありますが、100%善と悪に分けることなど出来ない、と私は考えています。少なくても、日本の文化は違います。日本の文化では、神と鬼は表裏一体です。神は鬼にもなります。だから鬼が100%悪い、という考えが能にはありません。能ではそういう描かれ方をしていません。また、鬼も西洋的なデビルやデーモンといった『悪魔』という存在はありません。鬼も可哀想で悲哀があり理由があるのだ、誰の心にも潜んでいるのだ、という所にスポットを当てているのが、能の中での鬼の役割です。

                   

                  その為に、色々なことをしてきました。以上がわたし個人の考えです。金春流の歴史から学んだのも勿論のこと、少なくとも他流の能楽師の方たちも同世代の方々はそのような考えを大なり小なりお持ちだと思います。これからは、こういうことを多くの日本人に、特に若い人たちにも伝えていくことが必要だと思います。そういうために、能楽の公演では私が主催する公演も含めて全て学生料金を設けています。

                   

                  又、頼まれて、企業セミナーや異業種交流会などでお話したり、学校などで子供達への啓蒙活動も積極的に取り組んでいます。子供達は、大人が憂いて考えるより遙かに能楽の素晴らしさを感じてくれます。手応えを感じます。

                   

                  又、昨年10月には、カナダのバンクーバーで、能を元にした新作オペラを作り能とオペラで共演するということに取り組みました。

                  カナダ人オペラ歌手や室内楽の方々に囲まれて、これこそ究極の異文化交流。作るのに大変な労力が掛かりましたが、大変に素晴らしい作品になり、現地で大絶賛を受けました。いつか、日本でも再演したいです。



                   

                  又2017年は、同い年の金剛流能楽師・豊嶋晃さんと、異流共演能という形で、東京と京都で「二人静」を勤めました。異流で、二人静という演目を共演するのは前例がなく大変に難しいのです。しかしこれも、今までにない素晴らしい作品になり、とても評価して頂きました。

                  山井綱雄 能オペラ

                   

                  これまた同い年の津軽三味線の第一人者・上妻宏光さんとの年始の東京国際フォーラムでの共演、そして、私の少年時代からの大ファンで親愛なるデーモン閣下と上妻さんと私による能舞音楽劇「義経記」は、今年も全国各地で上演させて頂きます。閣下の語りと歌と、上妻さんの演奏と、私の舞。有り得ない組み合わせで義経の生涯を描く大作です。涙あり笑いありの、何方でも楽しめる、一大エンターテイメントです。

                   

                  そして今年は、お陰様にて、私の舞台生活40周年記念の年なのです。

                  1026日金曜夜 国立能楽堂 「舞台生活40周年記念山井綱雄之會」にて、観世流の梅若紀彰さんと、あの野村萬斎さんと能「蝉丸」で共演することになりました。

                   

                  新しい能のファンを作っていくために、本当に、もがきながら試行錯誤をしています。

                   

                  一方で、気がかりなことがあります。能面も装束も今でも新しいものが作られています。しかし、そういう業者さんも絶滅寸前で、作っていただいている京都の能装束屋さんは自分の代で廃業する、と言っています。2軒くらいしかなく、非常にまずい状況です。滅びてしまうと本当に取り返しがつかないことなので、なんとかしてほしい、と心から思っています。

                   

                  実際にこの能装束を作られている京都の西陣の、佐々木能衣装の社長の佐々木さんにお会いし、厳しい労働条件で機織りをされている職人さん達の現場を拝見しました。本当に過酷で、あんなに大変なところで作業されているとは、驚きました。能装束にお世話になっている能楽師は皆見に行べきだと思いました。国の支援がもっとあれば、と思います。そして、需要があれば。そのためには、能楽全体が底上げされ、需要が増えるしかありません

                   

                  「羽衣」の話をします。この話は、日本と日本人の在り方について教えてくれます。

                   

                  羽衣というのは能の中で一番有名な演目で、三保の松原の天女が降りてくる話です。この羽衣には、日本人のこころに繋がる、すごく重要な裏テーマがあると言われています。

                  羽衣替の型

                   (羽衣替の型)

                   

                  漁師が浜辺の松に置いてあった天女の衣をひろい、家の宝物にしようと思ったら、天女が戻ってきてそれを返してください、と言うのですが、「自分の宝物だから」とそれを漁師が拒みます。そこで天女が泣いてしまい、かわいそうだから返してあげるけれど、さぞ美しいと聞いている天女の舞をってくれたら返そう、と漁師は交換条件を出します。天女はそれがないと神通力も使えないから、とにかく返してください、と懇願します。しかし、漁師はそんなの嘘だろう、どうせ返したら約束を果たさずにすぐ帰ってしまうのだろう、と疑います。

                   

                  その返す刀で発する天女の言葉が、大変に有名な一節です。

                  「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」

                  素晴らしい、深い一節です。偽りというものは人間にこそあって、天上界には嘘偽りというものは存在しません、という意味です。その後、漁師は手渡しで羽衣を返します。そして天女は舞を舞って天に帰っていきます。天に帰って行く前に、日本の国土に宝を降らせる場面があり、そういう動作(型)をします。七宝充満の宝降らすのです。天女が、日本の国に、幸せを降らせるために来たのだ、ということが最後の最後にわかります。そして、最後は、富士山の高嶺に飛んで帰っていく、というお話です。

                   

                  実は日本全国に伝わる羽衣伝説というのは、この能「羽衣」と違い、ひどいお話です。ほとんど拉致のような話・・・結婚して子供を産ませ、その子供が蔵の奥のほうに羽衣を隠していることを見つけ、それを天女が知り羽衣を取り返し逃げていく、という誠に眉をひそめたくなる話になっています。では、なぜ能だけがこういう良い話になっているかというと、羽衣伝説が三保の松原を舞台にしている事がひとつのキーポイントかと思います

                   

                  能「羽衣」の作者は不明で、これは一つの仮説・おとぎ話としてお聞き下さい。この「羽衣」の舞台となっている三保の松原がある静岡市清水一帯は、むかしは駿河(するが)」という国でした。実は、インドネシア語に、スルガ発音する、「天国」という意味を指す言葉があります。黒潮で海流に乗ってインドネシアから辿りついた人がいたのではないか、と考えられているのです。つまり天女は、外国人という説です。通常、アメリカなどでもそうですが、外国人が来ると原住民との間で戦争が起こります。しかし、この能のお話では一切戦いがなく、和解しています。実はそういう流れ着いた人たちが天女として描かれ、この三保の松原にて共存共栄して仲良くしたのではないか?そういう事実があったのではないか、と一説には言われています。

                   

                  能の中で天女が漁師に対して羽衣を返してと頼むとき、「もとのごとくに置き給へ」という言葉あります。つまり、元の場所に(松の木にかかっていたように)戻してくさい、という意味です。天人は月の世界に住んでいる人で、天人にとって人間は汚らわしい存在のため、触りたくないので元の場所に置いてください、と言っているのです。

                   

                  先ほどの「いや疑いは人間にあり。天に偽なきものを。」「あら恥かしやさらばとて、羽衣を返しあたふれば。」の後、漁師から天女へ衣を返す場面になるのですが、金春流の天女の台詞で「さらばこなたへ給はり候へ」と言います。つまり直接わたしに手渡してください、という意味で、漁師は天女に直接手渡しで羽衣を返します。本来、天人にとって人間は交わることさえもない汚らわしい存在にも関わらずそうしたのは、まさに共存共栄で仲良く暮らしていくというメッセージが込められて描かれているのだろうと思うのです。そして、天女は約束の舞を踊り、宝を降らして帰っていきます。日本人の本来もっている心が、漁師と天女の和睦に集約されているのだろうと思います。これが日本人の心だと思います。

                  能の羽衣

                  (山井さんの羽衣の舞)

                   

                  最後に、2018年の抱負は?

                   

                  今年2018年は、お陰様にて、芸道40周年を迎えることが出来ました。節目として10月26日金曜夜18:00開演 国立能楽堂 「芸道40周年記念山井綱雄之會」にて、能「蝉丸」をプロデュースと主演をします。先ほども触れましたが、能楽界のスターである観世流の梅若紀彰さんが「僕の舞台に出てください」とオファーを出したところ、快く出演してくださることになりました。紀彰さんの叔父様は人間国宝である梅若実先生で、現代能楽界最高の演者です。その方の後継者であります。梅若という家はとても歴史があり京都の丹波出身の家で800年ほどの歴史があると言われています。紀彰さんはその次の当主になられる人です。

                   

                  能「蝉丸」での、「蝉丸」というのは弟でその役を紀彰さんが、姉の「逆髪」役を私が勤めます。身体的ハンディキャップの為に、捨てられてしまった兄弟が再開し、また別れてしまう、という悲哀の名曲です。蝉丸は天皇の子で、盲目で生まれたため、大坂山に捨てられてしまった、というかわいそうな話です。狂言の野村萬斎さんにも出ていただきます。これがひとつの区切りとしての集大成であり、このような素晴らしい方々と肩を並べてどこまで出来るか、というところをお見せしたいと思っています。

                   

                  又、2017年は正月元旦にしたのと同様に、2018年は正月の二日に、日本で一番人気な三味線の上妻宏光さんのライブに出演しました。そういう方と一緒にできることを光栄に思います。同じ歳ということもあり、何より刺激になります。違うジャンルであっても、上妻さんはとても根性があり、これだけ売れてメジャーなレコード会社と契約をしているにも関わらず、そこに奢ることなく、若いころやっていたように三味線一本で、飲み屋などを周りお客さんに聴かせることもいつでもできる、そこでお客さんをおっと言わせる自信があると、そういう気持ちをいつも持ち続けています。そういう強さをもっている人なので一緒に共演していてもひしひしと感じます。とても励まされ刺激的な存在です。自分も能楽師をやってて良かったと思えるひとときです。

                   

                  又、二月には、千葉県の青葉の森公園芸術文化ホールで青葉能もありました。そこでは、「夕顔」という演目でシテを勤めました。我が金春流では、この「夕顔」を、400年ぶりに復曲しました。とても歴史に残る仕事をさせて頂きました。

                   

                  昨年7月には、重要無形文化財総合指定保持者の認定を受けました。

                  また、長男の通う中学校のPTA会長にも今年度(平成30年度)なりました()

                  また、能楽界でも、大きなお役をさせて頂くようになりそうです。

                  これからも、次の世代の伝承への努力と、私自身の芸の研鑽、そして、日本中に世界中に、「日本のこころ」を伝えていきたいと思います。

                   

                  皆様も是非、能楽堂へ足をお運び下さいませ!!

                  (このスケジュール表は、昨年末から今年前半のものですが、どんどん新しい演目が入ってきているので、ブログ

                  https://ameblo.jp/yamaitsunao/ 

                  を、チェックされてください。(筆者)

                   


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