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    京都 ] 仁和寺(2)


    仁和寺については、平家物語の平家が都落ちする時の逸話が残っています。 
    だいたい、平家の都落ちというのは、荒武者軍団の木曽義仲が京都に入って来る時に、
    宗盛はじめ、平家一門が、慌ただしく、安徳天皇を担いで夜中に出発して、
    西国を目指したことを言います。
     
    それは、現代歴史の中では、サイゴン陥落や日本の満州撤退のようなものだったのだと想像します。
    戦乱の混乱で貴族文化が終了するのは、アメリカの南北戦争の南軍の敗北にも共通項があります。
    「風と共に去りぬ」の去っていったものは、一つの文化だったのかもしれません。

     

    栄耀栄華を誇った平家も、武力の蓄積を怠り、管弦詩歌にふけっていたわけです。
    そこに、迫った源氏は、今でいえばISLAMIC STATEみたいなもの。
    野蛮野卑、文化の香りの無い戦闘集団。
     
    その都落ちの晩、皇后宮亮経正が仁和寺を訪れて別れを告げる場面です。
    経正は、平清盛の甥で、能『敦盛』に登場する平敦盛の兄。
    琵琶の名手で、手にしていたのは、唐から伝わっていた青山という名器。
    都落ちの混乱の中、経正はその琵琶「青山」を仁和寺の門跡に預けにきます。
    彼は、幼少の頃に、仁和寺に稚児として仕えたことがあったのです。
     
    「さしもの我朝の重宝を田舎の塵になさんことの口惜しう候へば、参らせ置き候」
     
    戦場に琵琶を持ちこめば、失うこともあると考えてやってきましたが、
    仁和寺の方でも、そのような時に、平家と繋がりがあった武者を境内に入れたとなると、
    あと、どんな災厄が降りかかるかもしれず、門のところで、待たせます。
    後白河法皇の第二の皇子、問責の守覚法親王は、どうするか問われたときに、
    迷わず、経正を入れさせたのです。
    逆に、経正の方が、後日迷惑がかかってはいけないと、なかなか寺内に入らなかったのを、
    法親王は、周りを叱責して入れさせたのです。

    平家物語

    (画像は、http://noh-and-kyogen.com/08/noh/tsunemasa.html からお借りしました。)
     
    法親王は、経正にはなむけとして、
    料紙に、
    「あかずして別るる君が名残をば
    後のかたみにつつみてぞおく」
    と、歌を詠むと
     
    経正は、
    「くれ竹の筧の水は替われども
    なほ住みあかぬ宮の内かな」
    と返歌します。
     
    そうして、名器「青山」を、仁和寺に預け
    経正は都を落ちていきます。
     
    経正は、その後、一の谷の合戦で命を落とすことになります。
    合戦で、武力で名前を挙げた武士は多いですが、
    なぜか、そのような武人は、後世に残っていかない。
    平家の中では、歌や楽曲で名前を今に残しているのは、
    源平の戦乱の中でも、経正は、平家の代表の一人でしょう。

     

    そんな事を考えながら、仁和寺の庭を巡っていると、
    歴史の重みを感じます。そして、詩歌を伝えた和紙が日本の文化に果たした役割とその存在の大きさに気づかされます。
     


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