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    京都 ] 平安貴族と乗り物文化=牛車


    JUGEMテーマ:京都

     

    とても面白いブログ記事を見つけたので紹介します。ブログタイトルは、【森の蜜 物忘れ防止 diary】。

     

    記事の題名は、「牛車で行こう平安貴族と乗り物文化のその一、その二」です。ブログの筆者は森の蜜さんです。森の蜜さんのこの記事は、京樂真帆子さんという方が書かれた本を読んでの感想文です。

     

     

    平安時代の牛車には、最高級の唐車、次に高級な枇榔毛車、そして網代車と牛車のクラス別を絵を見せながら紹介。

    唐車は天皇ののる高級ベンツ、枇榔毛車は、いつかは乗りたいクラウンで高級貴族、そして網代車はアクア。。。。

    という風に、京樂先生(?)は、説明されているらしい。

     

    イメージ 2

    唐車

     

     

    更に、清少納言の枕草子や、紫式部の源氏物語の中で出てくる牛車の話。

    別に、牛車に興味は全く無かったけれど、そういう乗り物と文化があったというのを読むと、思わず微笑んでしまいます。

     

    口語体で書かれていて、その比喩や、その2で出てくる、源氏物語は、葵上と六条御息所の恋の争いのストーリーの展開まで書かれていて、ブログ記事の作者の”森の蜜さん”の話が実に楽しい。古典は苦手だけれど、こういう風に書かれていると思わず読みたくなってしまいます。

     

    そう、そして、枕草子も源氏物語も、和紙という紙が無ければ成立していなかったわけです。人類の文化の発展の基礎には、常に紙があったわけです。世の中の全てのものが電子的に記憶されていく、それもクラウドという形に発展していってますが、あれって、千年も二千年も持つものなのでしょうか?

     

     

    https://blogs.yahoo.co.jp/morinomitu/40721093.html

     

    https://blogs.yahoo.co.jp/morinomitu/40721154.html


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      京都 ] 三井寺


      JUGEMテーマ:京都

       

      滋賀県にある歴史のある寺といえば、三井寺園城寺。自分にとっては、今回、二度目である。

      滋賀県の寺の雰囲気は、京都の寺のそれとは全く違う。京都では、お寺に行くと、雰囲気を楽しむというより、人の流れに身を任せる寺もいくつかある。もちろん、そうでない寺もあるが。滋賀県では、前に書いた石山寺とセットにして回ると良いと思う。三井寺自体、重文、国宝がいくつもある。

       

      金堂正面から。中には、数々の文化財が金堂の裏側にある。それだけでも、見る価値がある。三井寺

      三井寺の起源は、天武天皇の時と言われる。686年だそうだ。その後、天台宗の一門として、山上の比叡山と並んで、京都の入り口の首根っこを抑えていた。藤原道長や白河天皇などの支援を受けて、財政潤沢な寺であったらしい。三井寺は、その長い歴史の中でも、何回か登場するが、その中でも有名なのは、源頼政が、平家に対して立ち上がった時に拠った時ではないだろうか。又、安土桃山時代には、豊臣秀吉に嫌われて、一時は衰退したが、秀吉の死の直前に赦されたとのこと。

       

      しばし、三井寺の雰囲気を、画像を通して味わってください。

      三井寺

      緑の雰囲気が素敵である。春の桜、夏の緑、秋の紅葉と季節によって姿を変えているのだろう。

      三井寺 

      ここを訪れたのが、平日の金曜日の正午ごろ。この人の少なさが三井寺の魅力。

      三井寺

       三井寺は、西国三十三か所霊場の第十四番札所である。

       

      この西国三十三カ所霊場は、一度は訪れたい寺が多い。三室戸寺、青岸渡寺、紀三井寺、石山寺、六波羅蜜寺、清水寺、興福寺、上醍醐寺、花山院、華厳寺、、、

      三井寺

      観音堂の先にある台の上からは、遠くに琵琶湖が見える。Lake Biwaが見えるというのも三井寺の特徴。

      三井寺から琵琶湖


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        京都 ] 大徳寺−48年目の再訪


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        京都の中で、一番好きな寺はどこかと友人に聞いたところ、しばらく考えてから、大徳寺かなと教えてくれた。

        自分は、大徳寺に行ったことが無かった(?)と思うので、非常に興味が湧いた。

         

        大徳寺は、京都北区にある臨済宗大徳寺派の総本山である。

        京都には、臨済宗の五山というのがある。

        南禅寺を別格として、それ以外に、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺がそれである。

        それ以外にも、妙心寺という臨済宗妙心寺派の総本山というのがある。

        詳しく調べれば、他にもそれぞれの派の総本山があるのかもしれない。

        また、鎌倉にも臨済宗の五山がある。鎌倉五山は、建長寺派、円覚寺派とある。

         

        大徳寺は、最初は、建武の新政を興した後醍醐天皇に可愛がられ五山よりも上と位置付けられたが、

        その後、天下を取った足利家に、冷遇され、五山から外されたということである。

         

         

        ただ、その後は、上流各層からの支持と庇護を受けて、大徳寺からは、一休宗純という名僧を輩出。

        更に、茶人という文化人の本山的な存在となった。もちろん、利休などとも関係が深かった。

         

        その程度の予備知識を持って、大徳寺を訪れた。三門があり、静かな佇まいの寺である。

        その三門のところで、いきなり出会ったのが、この仏像。

         

         

        そして、しばらく歩いていくと、石田三成を祀った塔頭がある。

         

         

        更に、進むと芳春院。ここは、前田利家の奥方の芳春院を祀っている。

        芳春院

         

        そして、真珠庵。一休宗純ゆかりの塔頭である。ここは公開されていない。

        真珠庵

         

        真珠庵の隣に、大仙院がある。

        その時に、あれ、ここは、高校生の修学旅行で来たことがあるかも。

         

        大仙院

         

        確かに、ここは来たことがある。

        大仙院は、平常心などの著作やテレビ出演で有名な尾関宗園がいる。

        庭も有名で、方丈南庭にある二つの白砂の山を見て記憶が完全に蘇った。

         

        高校生の頃に、この庭におりて、この山をいじった悪ガキだった。

        その時に、若い坊さんに、もっとやりなさい、と言われた。

        そう言われると、やれないもので、

        結局、その悪戯を止めて、お坊さんの説教を聞いたのだ。

        もしかしたら、あの時のお坊さんが尾関宗園だったのか?

        48年も前の記憶を辿っても、その顔も説教の内容も思い出せない。

         

        自分が過ごした時間と同じだけ、この寺も庭も、変わらないままあったのだ。

        そして、この先、何年も同じように存在していくのだろう。

        人が通り過ぎ、その人たちの人生が積もっていっていく。

        そんな事を思いながら、大徳寺を後にした。

        (方丈南庭の画像はWIKIPEDIAからお借りしました。)


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          京都 ] 五山の送り火


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          京都に五山の送り火を見に行った友人からガラケーで撮った画像が届いた。

           

          五山の送り火、とは

          東山如意ヶ嶽の「大文字」

          松ヶ崎西山・東山の「妙・法」、

          西賀茂船山の「船形」、

          金閣寺付近大北山(大文字山)の「左大文字」

          嵯峨仙翁寺山(万灯籠山・曼荼羅山)の「鳥居形」の五つをいうそうだ。

           

          (この画像は、京都折り紙の中の一枚。)

           

          東山の大文字だけしか知らない人も多いという。

          お盆にあの世から帰ってきたご先祖様が、又、あの世に戻るのを送る行事だというが、

          京都でそれが発生したのはいつかは定かでないらしい。

           

           

          友人は、毎年、家族でこの送り火を見に行っている。

          しかし、二年前に奥さんを病気で失なってしまった。

          今は、息子さんと二人で、送り火を見に行っている。

           

           

          ちなみに、友人が送ってきた画像はこちら。

          かすかに、大の字が見える。

          画像が、あまり、はっきりしないよと言おうと思ったが、

          来年は、一緒に見に行って自分の目に焼き付けてこよう。

          それが、京都という街の良さなんだろう。

          五山の送り火

           

           

           

           

           


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            京都 ] 沖田総司の恋


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            和紙や和雑貨に思いを巡らせていると、

            必ず、京都という町に触れることになる。

            いつも脱線する事が多い当ブログだが、

            今回も、又、和紙や和雑貨から離れてしまうことをお赦し頂きたい。

             

            さて。日本人なら、殆どの人は、京都を数回は訪れているのではないだろうか。

            有名な寺社仏閣を訪れる人、四条河原町をぶらつく人、祇園で遊ぶ人、

            人それぞれのライフスタイルによって、色々な京都の思い出があるだろう。

             

            自分が最初に京都に触れたのは、中学生の頃にテレビでやっていた「新撰組血風録」

            という時代劇の中だった。副長土方歳三を栗塚旭というニヒルな雰囲気の俳優が主演だった。

            つい先ごろ、この時代劇の原作である「新撰組血風録」を読み返してみた。

            司馬遼太郎の1964年の作品である。全部で15の短編からなる新撰組の話である。

            一つ一つの独立した短編が、幕末の殺戮集団の個々の人間性を描いている名作である。

            もし、読んでおられない方がいらしたら、是非、お読みすることを奨めさせていただく。

            司馬遼太郎といえば坂本竜馬を書いた「竜馬がゆく」が有名だが、

            竜馬と正反対に位置した無頼の徒の集まりにも、作者は、愛情を持って描いている。

             

             

            この「新撰組血風録」の中でも、私が好きな話は「沖田総司の恋」である。

            新撰組を嫌いな人間でも、沖田総司だけは好きという人も多いのではないだろうか。

            この幕末史上最高ともいえる剣の使い手は、若くして結核(労咳)で亡くなるのだが、

            その沖田は、今でいえばシャイな人間だったようだ。その彼は、女遊びをしたこともない。

            池田屋の変で喀血した後に、隊に黙って、医者を訪れる。そして、そこの娘を好きになる。

            その娘は、毎月八の日に、清水の坂下にある音羽の滝に、茶を点てる水を汲みにくる。

            沖田は、京都の市井の人が、自分たち新撰組のことを嫌いぬいているのを知っている。

            だから、医者にも、その娘にも自分が新撰組の隊士であることは告げていなかった。

            そっと遠くから眺めているだけで良いと思っていた。

            ある日、自分も八の日に、音羽の滝に来ていますと、恋の告白のようなものをして

            しばらくしてから、自分が新撰組の隊士であることが分かってしまい、会えなくなる。

             

            この短編の最後を、作者の司馬遼太郎はこう結んでいる。失礼を敢えて承知で紹介させてください。

             

             

            「その夕、清水山内音羽の滝へ沖田はひとりで行った。

            掛茶屋はすでに、戸をおろしている。

            陽が落ちた。

            沖田はなお、滝のそばにいた。一夜待っても思うひとは来ないだろう。

            きょうは、八の日ではない。それでも、沖田は滝のそばにしゃがんでいた。

            しぶきが、肩をぬらした。

            本堂のあたりから日没偈の読経がきこえ、やがて懸崖の上の奥の院に灯明がともるころになっても、

            沖田はじっとかがみ、ときどき細い滝に手をのばしては、水を皮膚に感じてみた。

            あの娘も、こういうそぶりをした。

            山内を回る僧の提灯が近づいてきて、沖田の横にツト足をとめた。

            「ごくろうさまでございます」

            と、僧は声をかけて去った。

            滝には世参りの信徒がくる。そういうひとりだとおもったのだろう。」

             

            司馬遼太郎が描いたこの文章に、千年の王城の地であった京都の本質を感じることができる。

            町のはずれの寺の境内にお茶を点てる水を汲みにいく。

            その滝を僧侶が見回りにくる。

            奥の院では、灯明がつき、きっと読経もされている。

            八のつく日には、市民が水を汲みにくる。

             

            この風景は、京都の原風景のような気がする。

            そこは、関東者の暴力集団の新撰組では、絶対に入り込めない。

            文化というのは、こういう風にして作られてきたのだろう。

            それは、単に皇室、貴族、高僧がいるのとは違う。

             

             

            清水寺も三年坂もよく行くが、次回は音羽の滝を見に行こう。

            そういう魅力が京都にはある。

            だからこそ、京都は今でも、「和」の文化の中心として輝いているのではないだろうか?

             

             


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              京都 ] 平安京のトイレ事情


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              今回の話題は、平安京のトイレです。

               

              前回紹介した、高橋昌明著 【京都〈千年の都〉の歴史】によれば、

              平安京の、貴族のトイレは外に流れている道路側溝の水を、邸内の築地内側に木桶で引き込み、

              邸内で生じた汚水を混ぜて、道路側溝に流していたらしい。そして、その木桶に

              人間の排泄が行われていた。要するに、水洗式だったとのこと。

              ただ、道路側溝の水自体は、その他の塵芥が一緒になって流されていたので、

              汚臭はひどいものだったらしい。

               

              (現代京都御苑の外には、暗渠になった側溝がある。烏丸通り)

               

              高貴な人間は、邸内の樋殿というところで、オマルのようなものに、大小をして、

              家人がそれを洗って、木桶で流していたらしい。

               

               

              (確かに京都御所の周りには側溝がある。)

               

               

              もしかして、そのような臭いから遠ざけるために、

              寝殿造りのような建築様式が生まれたのだろうか。

               

              一般の人間は、道路がトイレという状態だったとのこと。

              だから、洪水などが起こると大変だったらしい。

              それだからこそ、道路が広げていたのだろうか?

               

              12世紀後半(平安時代末期)成立の「餓鬼草紙」絵巻には、

              街頭排便の絵が残っており、尻を拭くのには、紙と捨木が使われていたとのこと。

              なお、餓鬼草紙絵巻は、東京国立博物館と京都国立博物館にあります。

              この画像は、チェコ好きの日記さんからお借りしました。

              http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/04/01/111254

               

               

              それより、気になるのは、

              紙が、既に使われていた!!

               

              昭和30年代には、東京大田区の我が家のトイレの拭く紙は新聞紙であった記憶がある。

              それが硬いちり紙に代わり、いつしか、柔らかいトイレットペーパーに代わっていった。

              街頭には、汚わいの桶が東京でも、いたる所に置いてあった。

              それが、いつしかバキュームカーで汲み取られるようになり、

              いつしか、下水道に流されるようになっていった。

              都市というものは、衛生的なものを求めて歴史の中で進化してきた。

               

              源氏物語な中の妖艶な恋愛も、詩歌を返すような文化の傍に、

              当たり前のことだが、このような人間の生理的なものが同居していたと思うと不思議でならない。

              詩歌を書いた紙と、街頭で尻を拭くのに使われていた紙も、紙という意味では同じ。

              もちろん、品質には、差があったのだろうが。

               

               

               

               


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                京都 ] 京都の滑走路


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                和紙や和雑貨について考えていると、どうしても京都という日本の歴史と文化の中心にたどり着く。

                そこには、王城の地として1000年の歴史の重みがるのと、東京に中心が移ってからも、

                日本の食、芸術品、建築、宗教を育んできた特別な背景がある。

                 

                京都の始まりは、桓武天皇が794年に遷都した時から始まったとあるが、

                その時は、いったいどういう場所であったのだろう。

                その当時、唐の長安を模倣して、京都は碁盤の目のように、東西と南北に道路が作られた。

                現在の東寺のある辺りに、羅城門(羅生門)というのが、都の南の端に建てられた。

                あの芥川龍之介が書き、黒沢監督が映画にした羅生門である。

                (平安京羅城門想像復元図=Wikipediaより)

                https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E5%9F%8E%E9%96%80

                 

                その羅城門から、朱雀大路が北の皇居に向かって建設された。

                皇居の場所は、現在の位置と多少違うようであるが、それを無視して、想像してみよう。

                その距離はおよそ4000メートル。まっすぐな道である。

                そんな長さの直線路で、道幅90メートルというのは、まさに、現代の飛行場の滑走路だ。

                ちなみに、羽田空港で一番長いC滑走路は、長さが3360メートル、幅が60メートル。

                ブルドーザーも建設工機も無く、ちゃんとした測量技術も無い時代に、平安京は建設されたのである。

                ピラミッドほどの神秘さはないかもしれないが、いにしえの人たちの知恵と努力を想像できる。

                 

                このことについて書いている京都についての本がある。

                2014年に刊行された、高橋昌明著 【京都<千年の都>の歴史】という、

                岩波新書の大変面白い本である。。氏はその中では、こう記している。

                 

                 

                「読者のあなたが一二〇〇年前にタイム・スリップして、京の正面玄関である羅城門に立ったとする。

                そこから北方を眺めたら何が見えるだろうか。。。大内裏正門の朱雀門がケシ粒のようにかすんでみえるはず。」

                 

                 

                 

                こういう風に京都の街を見たことが無かったので、大変新鮮だった。

                ただ、現実の京都の街を歩いても、それを見ることはできない。

                唯一、それを感じさせるのは、御苑の中である。

                この御苑の広さは、一度歩いてみると良く分かる。

                北は今出川通、南は丸太町通の1.2キロ、西は烏丸通、東はほぼ寺町通の0.7キロ。

                皇居を北側に、真ん中を貫く砂利を敷きしめた道があり、建礼門から眺める景色は、

                当時の街を感じさせてくれる。

                 

                そして、皇居の周りには、坊と呼ばれる150メートル四方の道割がされていたらしい。

                その新しい都を訪れた外国(唐)の使節、国内の辺境の地から訪れた人の驚きを想像するのも面白い。 

                ただ、そこには土木工事が終わっただけである。京都がすごいのは、そこから、何百年という時間をかけて、

                寺社が建てられ、ひらがなが生まれ、詩歌が詠まれ、貴族の文化が育ったのである。

                こんなことを考えて京都を旅してみるのも面白いのでは?

                 

                それを支えたのが、和紙である。建物の一部として、本、手紙、行燈、というふうに紙が使われていった。

                ここに、日本の文化の凄さがある。ただ、現在、その京都には和紙の主だった生産地は無いようである。

                その代わりに、和雑貨の店は限りなく多い。

                この辺りについては、別の機会に取り上げてみたい。


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                  京都 ] 京都の洋食屋 はふう


                  JUGEMテーマ:京都

                   

                  昨年は、京都のフレンチのビストロの ボンモルソーを取り上げたが、

                  あちらは、本格的なフレンチ。

                  今年は洋食屋の「はふう」を紹介したい。

                  まずは、代表的な料理のビーフカツをご覧ください。

                   

                  京都の洋食屋はふうのビーフカツ

                   

                  関東の人には、ビーフカツというのは馴染みがないけれど、

                  これ、美味しいのです。

                  肉は、和牛とオージービーフが選べます。

                  こちらの画像は和牛です。

                  これを、白いご飯で食べると、頬が落ちるのです。

                   

                   


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                    京都 ] 京都を考える


                    ゴールデンウィークの前に京都に行く機会がありました。

                    京都に行く度に思うことは、京都という町の進取の思いです。

                    京都であったからこそ平安の王朝文化が栄え、

                    武家の進出と制覇にもめげず、鎌倉幕府を倒す土壌ができ、

                    室町、安土桃山でも、常に政治と文化の中心であった。

                    そして、江戸時代は、中心が江戸に移って250年以上経っても

                    明治維新の原動力となったのは、京都という町が背景にあったからこそ。

                     

                    そして、明治、大正、昭和という日本史上空前の繁栄と戦争を経験した後、

                    京都はやはり新しいものを取り入れているのです。

                     

                    京都には、世界に名だたる電子部品の会社が終結しています。

                    日本電産、京セラ、ローム、村田製作所、キーエンス、オムロン、堀場製作所、大日本スクリーン、、、

                    このうちの一つでもなければ、パソコンやスマホは動かないのです。

                    そして、任天堂も京都です。

                     

                    こういった今では、世界の部品工場として繁栄しているわけですが、

                    やはり、京都の土壌と歴史なくしては、育たなかったのではないかと想像します。

                    それは、新しいものを採り入れることに躊躇せず、

                    細かい作業を厭わず、

                    いったんできあがったら、他の追随を許さない。

                     

                    京都というと閉鎖的というイメージがありますが、

                    どっこい、新しいものを採り入れていくパワーがあります。

                    次回は、それを京都の洋食という点から取りあげてみたいと思います。

                     

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                      京都 ] INODA COFFEE


                      京都に旅行するのが好きな人で有名なのは、
                      喫茶店の多いことですね。
                      それも、みんな割りと質が高い。 
                      その中でも、三条にあるINODA COFFEEは、雑誌やブログでもよく取り上げられていて
                      最近では、知らない人の方が少ないようです。

                      INODA COFFEE

                      このINODAの本店は、朝7時に開店するので、
                      朝の早い利用者には、便利が良いのです。
                      ビジネスホテルの味気ない朝食を避けてくる人、
                      地元の方で、ゆったりと朝食を召し上がりながら、
                      ゆっくりと、ひと時を過ごされている人。

                      一種、独特の雰囲気があります。

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